武蔵野夫人 虐待 モデル

 私は昭和29年生まれです。中学生の時に、テレビで東大安田講堂の攻防を見ながら受験勉強し、高校生の時には、同じく、テレビで浅間山荘事件の中継を見ながら、受験勉強をしました。こう書いたら、自分より年上の人々は、大体の時代背景や雰囲気はわかると思っていつも書いています。そして、自分より年下の世代にとっては、学生運動とかヒッチハイクとか、公害闘争とか、言葉は知っていても、雰囲気は伝わらないだろうなと思っています。
 ともかく、受験勉強をし、めざしていた医学部は合格しなかったものの、某有名私立大学の工学部に一浪の後で入学し、両親はひとまず安心したのでした。
 しかし、私は、大学に入るだけの力はあったのだと示したいだけで私立を受けたのであって、大学には行きませんでした。何をしていたかというと、共同体めぐりをしていました。
 そして、半年もしないうちに、両親のところへ、「大学をやめるよ」と宣言に帰りました。
 
 父親から、顔を殴られました。一発目はいきなりだったので、受けましたが、2発目からの数発は、両手で防ぎました。そして、私は父に責めるように叫びました。「あんたは、いったい今まで、何のために生きてきたんだよ!」
 父は手を止め「そんなことは、頭のいいお前の方が分かっていると、思ってきた。」といいました。私はそのまま家を出て、しばらく今でいうフリーターの暮らしをし、放浪生活を続けました。
 「大学をやめる」というのは、一つの復讐でした。幼い頃から、毎月月末が近づけば、暴力の伴う夫婦喧嘩を続けてきた両親。母は、その毎月の夫婦喧嘩の合間に、4つ年上の次女(姉)を虐待しました。箒の柄で、青あざがいくつもできるくらい殴りつけました。私は殴られることはなかったのですが、大好きな姉が目の前で殴られる、それを止めることができない、というのは私にとっても虐待でした。
 友達を連れて、自宅に帰ると、その友達の目の前で、髪の毛をつかんでの喧嘩をしているところだった、と言ったこともありました。
 父親や母親に対する反発が、どこかそのまま権威に対する反発につながっていたと思います。世の中に対しての、反発や批判が幼い頃から、ありました。
 何のための勉強? 競争社会に勝つための勉強? ある事情によって、父は他の兄弟から離されて育ちました。他の兄弟たちは、みんなが大学を卒業し、祖父と同じ教職に就いたのに、父は実業学校を卒業しそのまま就職しました。父にも、そういう負い目やひけ目があったと思います。父の兄弟が集まった席で酒を飲み、酒の勢いで暴れていたこともありました。そんな父のようにはなりたくない、という思いがありましたが、競争をするということそのものが嫌いになりました。
 
 「あんな親にはなりたくない」という思いが、姉二人と私にはありました。そうなのに、私達は、どこかしら心の奥に暴力的な衝動を抱えてしまいました。
 次姉の場合、彼女の息子から、「お母さん、口で言ってよ、叩かなくてもわかるよ」という言葉に目覚めたようです。しかし、長姉のばあい、今も続いているようです。さすがに長姉の子どもたちも、30歳を過ぎているので、腕力の暴力沙汰にはならないようですが、20歳代の時には、まだまだあったようです。今は、言葉と行動の暴力です。腕力による暴力だけでなく、ネグレクトもあったようです。
 統計の数を見ると、児童相談所への相談件数は、年々増加しています。でも、長姉の家のことについては、児童相談所は関わっていません。実際の数は、統計に表れている以上ということでしょう。
 幼い頃、私達姉弟は、いつか私達の事を小説にするんだという思いで、耐えたりしました。今、そういう思いを抱いた生きている子どもたちが、きっといるのだろうな、と思います。
 長姉は、姉で今も両親をゆるせないのでしょう。姉は、私とも連絡が途絶えて、十数年になります。
 次姉と私は、もう両親を責めてはいません。この世にもいませんし、両親には両親のそうなってしまいがちな生い立ちがありました。
 時代背景からいうと、両親は戦後恋愛結婚をしました。いま思うに、結婚をスタートさせたものの、具体的な日常でのモデルを持ち得なかったのだと思います。
 そんな様子が分かるかもしれないと思い、DVD で「武蔵野夫人」を買いました。
 役者の森雅之は、有島武郎の長男です。