いずれにせよ年老いて死んでいく、ならば    slow walker

k1s2012-09-15

自閉症」という単語で検索すると、
gooヘルスケアのページには、次のように書かれています。
 
< 自閉症(自閉性障害)とはどんな病気か
 脳の発達・成熟が障害されることにより、心を通わせることが不自由な、3歳までに発症する神経発達の病気です。子どもの0・1〜0・2%にみられます。
 
 自閉症の子は、あたかも自分の世界のなかで生きているかのようにみえ、他人に興味を示すことが少なく、社会性に乏しい傾向があります。また、日常生活の決まりにこだわり、奇妙な行動を繰り返します。コミュニケーションが苦手で、視線を合わすことを避け、他人に愛着を示しません。 >
 
 
以上の外側から見た説明文の中にある「心を通わせる」「社会性に乏しい」「コミュニケーションが苦手」ということについて、改めて考えてみました。
 
自閉症傾向にある人々に対して、いわゆる「定型的発達」を遂げている人々も、心が通っているつもりでもほんとは、心は通っているのか、コミュニケーションが成立しているつもりで、ほんとにコミュニケーションが成立しているのだろうか、と改めて考えてみたかったのです。
 
一体何を以て、心が通ったといえるのか、コミュニケーションが成立したと言えるのか、という(少々哲学的な)問いでもあります。
 
例えば、ある子供が、「今日、さとる君の家に遊びに行ったらね、犬が家の前にいたよ。」といったとします。多くの人は、この発言を聞いて、それなりに情景を思い浮かべるでしょう。その子供の言っている意味が分からない、と思う人はあまりいないでしょう。
 
犬がどのような犬であるのか、大きいのか、小さいのか、どんな犬種なのか、寝ていたのか、尾っぽを振っていたのか、吠えていたのか、そういった具体性にこだわることなく、子供の言っていることを受け止めます。
 
犬とかDogという言葉は、実際に生きている犬に、全然似ていません。
 
それでも、私達オトナは、「犬」という言葉を聞けば、キリンでもなく、カバでもなく、猫でもなく、ある四足の動物を思い浮かべます。ある人はチワワのような犬を思い浮かべ、あるひとはシェパードのような犬を思い浮かべたとしても、ライオンやシマウマや椅子でなければ、犬という言葉が通じたことになります。
 
犬という言葉は、具体的な個々の犬のことを言っているのではなく、そのような具体的な個々の犬が属するグループにつけられたラベルだからです。
 
犬ということばは、猫やトカゲや象からは「弁別」されたグループであり、同時にチワワやシェパードやゴールデンリトリーバーなどを「般化」したグループにつけられたラベルです。
 
「犬」という言葉だけではありません。
「リンゴ」「鉛筆」「机」「文房具」「家具」「世界」「心」「私」「過去」「夢」「悲しい」「愛」
 
何らかから「弁別」され、同時に何らかを「般化」したグループにつけられたラベルです。
 
学術的に間違っていても、ある人は「魚」という言葉の中に、鯨を含め、般化し、ある人は「哺乳動物」の中に般化します。
 
ある人は、「体罰」を「愛」とか「教育」「指導」の中に般化し、ある人は「暴力」「強制」の中に般化します。
 
相手の言っていることを「理解する」とか、「心が通じる」ということの意味は、般化のレベルさえ合っていれば、ええ加減なところで手を打つ、妥協するということではないか、と私は思うのです。
 
自閉傾向があるといわれている人々が、「コミュニケーションが苦手」といわれるのは、ええ加減なところで、手を打てないからではないか、と思うのです。
 
「定型発達のカップル」なら、デートの別れ際に「明日電話かけてね。」といわれると「うん、わかった。」でコミュニケーションは成り立つのでしょう。
 
自閉傾向カップルならば「明日、電話をかけてね。」といわれると、例えば「何時何分に?」という問いかけになったりします。(モーツァルトとクジラというDVDの中に、そういうシーンがありました。)
 
で、結局何が言いたいかというと
 
一つは、人はそれぞれに「こだわり」を持って生きている存在だろうから、
 
そのこだわりを一旦認めて生きていきましょうということ。
 
まあ、すでにやっている人はやっていることでしょうけどね。
 
独我論」「非定型」でいいじゃないですか。
 
独我論・非定型でいいじゃないですか。」と受け入れたら、枠・定型が消えていくと思います。
 
いずれにせよ、私達は年老いて死んでいきます。
 
モーツァルトとクジラ」という題名の本、NHK出版、ジュリーニューポート メアリー・ニューポート著 2007の中にあるたとえ話なのですが、
 
目の前に二つの箱があります。
一つの箱は宝箱で、もう一つはくずかごです。
 
< これからどうしたいのか―宝の箱で価値あるものをさがすのか、それとも、くずかごをかきまわしていたいのか。>