臨死体験(臨終)瞑想「一本の樹・ひとつの森」瞑想

臨死体験(臨終)瞑想「一本の樹・ひとつの森」瞑想
 
はじめに
 
 明日という日が、確実にやってくる訳ではありません。
もしかして、明日大地震が起こるかもしれません。かといって、明日という日に、人生が確実に終わる訳でもありません。ですから、明日以降のことも考慮し、あれこれ備えて、私達は生きていくことでしょう。明日のことはわからないまま、日々を生きて、私も世の中も変化し続け、そして私達はいつの日か臨終を迎えます。
 
 それはどのような「臨終」なのでしょう。それはいつのことでしょう。どこで、そばには誰がいるのでしょう。臨終は、やはり人生ドラマのクライマックスです。待っていても、なかなか臨死体験は望むようにはやってこないので、瞑想によって、臨終(臨死体験)を味わってみましょう。「具体的」「現実的」そして「願望的」にイメージしてみましょう。
    
いってみれば、臨終の予行演習です。演習をすることによって、自分の人生ドラマの文脈全体が、より見えてきたりします。本番がもっと味わい深くなることでしょう。
    
   
< 方法 >
    
 これから、いくつかの質問をします。はっきりとイメージしてみましょう。
       
☆私が臨終クライマックスの主役で願望編
       
 ○あなたは何歳になっていますか?           
 ○そこは何処ですか?
 ○そばには誰々がいますか?
 ○どのような呼吸をしていますか?
 ○旅立った後、あなたはどうなると思っていますか?
 ○その時の「私」は、「私の死」をどのようにして受け入れていますか?
 ○あなたの今の生活、人間関係の在り方は、
こうありたいと願っている臨終につながりますか?
 ○来ることは確実で、かついつ来るか確実でない「あなたの死」を、
あなたは、日常ではどのように向き合い、受け入れていますか?
 
 
☆思ってもいなかった状況での突然の臨死体験編 ある程度状況を特定します。
 
 ○その日は、来年の今日です。
 ○そばには、家族や、友人など、知り合いは一人もいません。
 ○どのような呼吸をしていますか?
 ○死んだあと、あなたはどうなると思っていますか?
 ○やり残したと思うことはありますか?
 ○その時、あなたは突然の死をどのようにして受け入れるのでしょう?
     
愛する人、身近な人の臨終に立ち会う編 (すでに幾度か味わった人もいるでしょう)
         
 ○その人は、どなたでしょう?         
 ○そこは、どこですか?
 ○あなたのほかに誰かいますか?
 ○お互いに、どのような呼吸をしていますか?
 ○その人は、自分の死を受け入れていますか?
 ○どのような会話をしていますか?
 ○どのような臨終にしたいですか?
 ○具体的にどうしますか?
 ○あなたとその人の今の関係の在り方は、そのような臨終に結びつきますか?
       
「私」についての捉え方 他の臨終瞑想との比較
明治大学文学部教授、諸富祥彦氏の「自分を生きる」という心理学体験ワークショップには、「臨終の内観」という実習があるようです。「内観」という言葉は、吉本伊信という浄土真宗の僧侶によって考案された「内観法」という療法に由来しています。主に自分の人生において深く関わった家族や人物との関係において、?世話になったこと、?自分がして返したこと、?迷惑をかけたことを丁寧に振り返ります。私達の臨死体験瞑想は、この内観とは「私」についての捉え方の趣が違います。
        
古来より、人生の無常を想い、「一期一会」「今ここに生きる」といった標語を掲げて生きるという方法が多く語られてきました。実践してみると、長期的展望を欠きやすく、切羽詰った心境になりがちで、バランスを欠いた生き方に陥りやすいように思います。
また、この世とあの世の境界まで赴き、そこで守護霊に出会い、使命を授かるといった「神秘的な瞑想」を勧める人もあります。私達の瞑想は、これらとも、「私」の捉え方が違います。
    
あなた自身を、例えば「桜」に例えるとしたら、あなたはご自身を、桜の花びらに例えますか?それとも、桜の花でしょうか?あるいは、桜の枝でしょうか?一本の桜の木でしょうか?
桜の花は、枝や幹や根っこなしでは存在しえません。一本の桜の木は、大地や森なしには考えられません。「私」は「私以外の存在」あっての私です。
私達の臨終瞑想は、各自の「皮膚の内側(私)のこだわり」を受け入れつつ、「皮膚と言葉の境界」を、日々越えていく瞑想なのです。

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