さわやかな風に 風天の寅さんを想う

k1s2012-09-27

俳句表現には俳句の特徴があり、写真表現には写真の特徴があり、一緒ではありません。一緒ではありませんが、世界の一部を切り取ってきて表現するということは共通しています。そして、世界の切り取り方に、切り取った人の個性や人生を垣間見ることが出来ます。「表現」という言葉が示すように、「作品」を通して、切り取った人の人生が、現れてくることでしょう。
      

例えば、縦軸に「見せるための、美しく調った俳句・写真」があり、横軸に「世界や相手に寄り添い、より感じ、より味わい、寄り添う俳句・写真」があるように思います。
         
知人が、海外旅行から帰ってきて、かの地で撮った写真を見せてくれたことがあります。一通り見終わって、あることに気づきました。風景写真が中心で、それも対象との距離間もほぼ同じなのです。風景の中に風景の一部として人物が小さく映ることはあっても、表情まではわかりません。表情が分かるほど、近くから人物を撮った写真、ツアーで一緒になった人の写真とか、食べた料理をフォーカスした写真などはありませんでした。それは、丁度その人の日常での人間関係のとり方と同じように思いました。
            
 外側から距離を保って観察し、見せることが主の方向性と、寄り添い、内側から見た世界を浮き上がらせ、感じ、響きあうことが主の方向性があるように、私は思っています。そして、それは俳句や写真以外においても。
                
私が魅かれる俳句は、世界や自分自身に対しある距離を保ち見つめながらも、寄り添っていると感じられる俳句です。
            
今、森英介著「風天 渥美清のうた」大空出版 2008を読んでいます。
 
映画「男はつらいよ」のふうてんの寅さんを演じた渥美清さんが、俳句を詠っていたことを数日前知りました。
 
俳号は、「風天」でした。 風天さんの俳句に魅かれます。
  
秋に因んで
    
「 蓋あけたような天で九月かな 」 風天
「 雛にぎるように渡すぶどうひと房」 風天
「 赤とんぼじっとしたまま明日どうする 」 風天
「 村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 」 風天
「 どぶろくややわらかく噛んで眠くなってくる 」 風天
「 羽虫飛ぶ葡萄のさだめ客の果て 」 風天
「 秋の野 犬ぽつんと日暮れて 」 風天
「 どんぐりのポトリと落ちて帰るかな 」 風天
「 流れ星ひとり指さし静かなり 」 風天
  
  
「爽やかな窓に喜捨乞う野良猫(のら)の母」 諸心
「爽やかな小道で拾う鳥の羽根」 諸心