スローウォーカー slow walker

普段、私たちの多くは、当然明日が今日と同じようにやってくると、疑いもなく暮らしているのではなかろうか?
 
「明日」だけでなく、「一ヶ月先」も、あるいは「一年先」も。
 
「十年」というと、「私達の多くは」とは言えなくなる。
 
からだに自信のない人や、高齢者の方だと、「あと十年生きられるかな」と思う人もいるのではなかろうか。
 
逆に、「百年先」となると、「百年後も、生きているよ」と言う人はほとんどいないと思う。
 
「いつかは、この世から去るが、明日は、今日と同じようにやってくる。」と思いながら生きているのが、多くの人の生きかたかな、と思う。
 
「当然明日は来る」と思いながら、結婚を考えたり、ローン返済の中を生きていたり、資格を取ろうとしたり、学校の卒業後のことを考えたり、退職後や老後の予定を立てながら、生きているのではなかろうか?
 
しかし、自分の立てた予定とは違うことが起こることがままある。
 
怪我や病気をしたり、試験に落ちたり、恋人と喧嘩したり、会社が倒産したり、リストラにあったり、
子供に障害があると診断されたり、
 
だからこそ余計に、明日の予期しない出来事に備えて、今日を生きたりする。
 
それが嵩じて、未来のことをあれこれ思い、不安に感じて、不安解消のための行動に一日を使ったりしてしまう。
 
忙しさの中で、不安は「漠然とした不安」となり、心の底に沈殿し、姿が見えなくなる。
 
こういう生き方を、「疎外」といい、今日の自分を、明日の自分のための道具、手段にのみしてしまうことを「自己疎外」という。
 
自分の思う通りならなかったら、腹を立てたり、周りの人を攻撃したりする。
 
 
そんな時、どこからか、警告がやってくる。
 
「明日が当然やってくるかのごとく生きているけれど、明日が当然やってくるとは限らないよ」と。
 
そういう声だけでなく、出来事としてやってきたりする。
 
身近な人が、癌を宣告されたり、あるいは死んだり、あるいは、自分自身が、臨死体験をしたり。
 
そこで、「一期一会」「今を生きる」という言葉が標語になったりする。
 
ある者は「刹那主義」や「虚無」に落ち込む。
 
でも、これは実は、言葉のなせる技。
 
「明日が、必ず来る訳ではない。」その通り。
 
そう自分に言い聞かせて生きてきた。
 
そして、最近は同時に思う。
 
「明日が、必ず来る訳ではない。
かといって 今日、あるいは明日、必ず終わる訳でもない。」
 
この何の変哲もない一行を書き加えるのに、何年かかったろう。
 
機会あるごとに、縁ある人には、呼吸法を語り、
共に今ここを感じ
 
そして、明日のことを思う人のそばに寄り添い、ゆっくり息をしながら、その人の物語に耳を傾ける