コミュニケーションの語用論と愛

k1s2013-06-06

ここ数日、私の中でキーワードとなっている言葉は、「コミュニケーションの語用論」です。
     
辞書で語用論を調べると、「言語学の語用論」が表記され、例えばウィキペディアには、
<理論言語学の一分野で、言語表現とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究する分野である。運用論ともいう。>と説明されています。
      
わざわざ「コミュニケーションの」とつけているのは、「言語表現が命令・依頼・約束などの機能を果たす側面」とウィキペディアで書かれているところを、側面ではなく、むしろ主たる面と捉えたいからです。
      
その拠り所となっているのは、ベイトソンの「二重拘束理論」であり、ポール・ワツラヴィック他著の「人間コミュニケーションの語用論」相互作用パターン、病理とパラドックスの研究 二瓶社刊 と、長谷川啓三編集「現代のエスプリ 臨床の語用論」至文堂刊 です。
       
では、コミュニケーションの語用論とは具体的にどういうことをいうのでしょう。
少し長い引用になりますが、現代のエスプリから引用します。
       
<一般にコミュニケーションとは情報の伝達と考えられるが、ベイトソンらが明らかにしたように、情報の持つ他者への影響の側面こそが重要なのである。ベイトソンは、それを、メッセージは他者に情報(報告)と影響(命令)の両者を常に運ぶといった。また情報がないということですら、ある影響を与える。コミュニケーションの他者への影響の側面が理解できれば、コミュニケーションがなぜ、人の行動にとてつもなく大きな影響を与えるかが理解できるだろう。問題行動であろうと維持であろうと、その決定でもっと最も重要なのが、コミュニケーションの、この側面である。コミュニケーションに関して情報伝達の側面のみ焦点を当てるだけならば、事は単純化し、理想的なコミュニケーションは明確で簡明であるべきだといった方向へ議論は進む。
 しかしわれわれの立場は反対である。コミュニケーションは単純ではない。複雑である。まず任意のメッセージは関連する他のメッセージをコンテクスト(文脈)として生起する。そしてメッセージの交換は通常、関係(コンテキスト)と呼ばれるものを形成することになる。仮にあるメッセージを単純にとり出すことが可能だとしても、それは語調、表情、複数の単語といったものを伴い、コミュニケーションの回路がけっしてひとつではないことを知ることになるだろう(ウィークランド1992)>(6~7ページ)
             
また、「人間コミュニケーションの語用論」のなかで、ポール・ワツラヴィックはこう述べます。
           
公理1<人はコミュニケーションしないことはできない>
公理2<コミュニケーションには「報告」と「命令」という側面があり、命令は情報についての情報であるから、メタ情報である>
         
私たちは、ある単語を「と」でつないで表現すれば、「と」の前後にある単語の関係を、並列の関係と思い込みやすいが、「報告」と「命令」は、並列ではないということを心しておく必要があるでしょう。
        
さて、私たちは、コミュニケーションしないことはできない、つまり、関係を形成せずにはおれない、ならば今、一つ一つのコミュニケーションにおいて、あなたは、私は、私たちは、どのような関係を形成しようとしているでしょう? どのような関係を築きたいと願っているでしょう?
        
「愛」の関係を、多くの人は説き、本人も望んで、実行していると思っていたりします。
         
しかし、「愛」という言葉は、もうずいぶん長い間人々の間で使われてきたので、そのコトバに込められた意味も、複雑多重です。
 
例えば、愛の関係を築くことを望んでいると言いながら、対等、協力、配慮の関係ではなく、実は支配や服従、競合の関係を形成していたりします。
         
フロムは、「愛は、受動的な感情でなく、能動的な行動である」と言いました。
          
しかし感情としての愛を望んでいる人は、人を判断します。この人は愛する価値があるかどうか。同時に、無条件の愛を述べることがあっても、それを自分では実行(能動)しなくとも、他者には実行をもとめたりします(受動)。
          
フロムは言いました
<愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。>
         
ここまで言い切ってしまうと、「希望としての愛」を思うことはできますが、実際の生活で、はたして、私は、人を愛せるか、生身の人間は人を愛することができるのかと思ってしまいます。
         
ともかく、コミュニケーションは情報の伝達という働きのみをするのではなく、関係の形成が主なる面でしょう。そして、いまこのコミュニケーションは、どのような関係を形成しつつあるかと検討・自覚しながら行動することが大切であると思っています。
        
検討しつつコミュニケーションしてみると、ある面「絶望」するように思います。そして、この絶望が「愛」にとって必要と思っています。