言葉と生きるということと「もどかしさ」

k1s2013-04-27

ここ一か月くらい、一日に一個、小石に花の絵を描き続けています。
「小石に絵が浮かび上がってくる」ということは、単純に楽しいです。数年前までは、全然絵を描けず、楽しめずにいたのが、あるきっかけで楽しめるようになりました。そして、「それ」を伝えたい気持ちもあって、実例として描いています。描きながら、楽しむだけでなく、視点の転換が起こればいいのにとあれこれ思い、その想いを心の中で文章化しながら描いたりします。
 
その想いとか文章は、「理屈」であって、絵を楽しむには邪魔かもしれないのですが、「理屈」は理屈で、生活の他の場面で、味わいを深くしてくれると思っています。
 
絵を描きながら思うことのひとつは、人間以外に絵を描ける動物はいるだろうか、ということです。
確かにテレビなどで、チンパンジーが絵を描いたとか象が絵を描いた、という放送がされたりしますが、
それらは、大体はなぐり描きであり、何かを写生し、その絵でもって他者に何か伝えようとしている絵ではありません。
 
自分が伝えたいものごとを、できるだけそのありのままに近く、具体的に表現できるようになること自体が、単純な喜びです。逆に言えば、言いたいこと、伝えたいことが、表現できないこと、それによって伝わらないことは、もどかしく、苦しみを産みます。
 
しかし私は、この「もどかしさ」の感覚は大切なように思っています。
 
絵の場合、自分が表現しきれていないことは、本人も自覚しやすいのですが、「言語」による表現だと、そのもどかしさが自覚しづらくなるからです。自分が見、感じた現実を伝えようとして、絵にすれば、自分が見、感じた現実とそこに表現されたものとは同じではないと、自覚しやすいです。同じ場所で、二人で並んで写真で撮れば、同じ風景でありながら、その人独自の視点で風景をとらえている、ということを自覚しやすいです。

コスモスの群生に感動し、それを絵や写真で表現しようとすれば、時間も技量も必要になりますが、言葉だと、さっきね、「コスモスの群生を見たよ、とっても感動した」と言えば、なんだかそれだけで、発信した側も受信した側も、伝わったつもりになってしまいがちです。
 
コトバは情報伝達、操作・命令・支配・制御において、便利な道具です。ネアンデルタール人が滅び、クロマニョン人が生き延びて文明を発展させてきたのは、このコトバのおかげであるという仮説があります。コトバは便利な道具だけに、その使い方を誤ると、後々苦しみを産みます。
 
先人は、このコトバの功罪をよく自覚していて、私たちに伝えてくれているのですが、それもまた主にコトバで伝わっているので、そこにも「もどかしさ」がうまれます。
 
コトバ・記号の功罪を伝えるものとして、私がいま思いつくのは
「地図と現地は同じではない」コージブスキー(一般意味論)
「コトバは記号であり、コトバとその意味内容の結びつきは恣意的である」ソシュール
「モノの名前は、モノそのものではない」ソシュールベイトソン
「因是有是 此生則生」「諸法無我仏陀
「名前をみだりに唱えるな」出エジプト記
「クラスとメンバーの間には連続性がない」ラッセル、ベイトソン
「単語の意味(あるいは行動の意味)は、文脈によって違ってくる」
「(相手を)拘束する作用をもつものをコトバという」語用論
「現実と呼ばれるものは、全て各人が共同で構成した産物にすぎない、発語が行為として現実を構成している」佐藤悦子(現代のエスプリ456)
などです。

例えば、私達はコトバを使っているうちに、そのコトバに対応した実体があるかのように思い込んだりします。

 まず最初に、名づけられた個物が存在し、それらが集まってこの世界をつくっていると思い込んだりします。

例えば、先ず実体としての「愛」があって、<愛するという行動>が生まれるとおもいこんだりします。
障害と健常の間に、はっきりとした境界線があるかのように思い込んだりします。

ここまで書いたとき、右脳からのストップが出ました。
 
まあ、絵を描いてみましょう。いつまでも「もどかしさ」を忘れないようにね、と右脳が言っております。

(因みにもどかしいは、擬かしいと書きます。擬態の擬。雁擬の擬。梅擬の擬。)