八方塞になって見えてくる光がある

「人間コミュニケーションの語用論」という著書があります。
内容をかいつまんで説明すると
私たち人間がコミュニケーションするのは、
情報の伝達ということだけが目的ではなく、
情報の伝達という行為を通して、関係を形成することが目的であるというのです。
 
人間コミュニケーションを考える時、
私たちはともすれば、情報の内容を如何にしてそのまま相手に届けるか、相手に理解してもらえるかという面に注目しがちになり、情報を伝達するという行為全体によって、そこにどういう関係が生まれているのか、そこにどういう意図が含まれているかということを見落としたりします。
(発信する人自体が見落としている場合もあります。)
 
関係を形成するというと聞こえがいいのですが、
相手の在り方を変える、操作する、支配しようとするとも言い換えることができます。
 
情報を伝えるということだけでなく
情報を選びとって受け取るということも、その目的は関係を形成するということ
自分の在り方、関係の持ち方を変えたり、維持するということでしょう。
 
だから、こういう自分でありたい、こういう関係を結びたい、という目的にあった情報を選んで受け取ったり、また発信したりしていると思います。
  
「自分」がこうありたいと思い、その思いにとって都合がよい情報だけを選びとれる余裕があるときには、そういった自分にとって都合がよい情報を選び続けることでしょう。
   
その時「自分」をどうとらえているか、が問題になってきます。
皮膚に区切られた内側だけを自分と思っている人は、そういった自分にとって都合の良い情報を選ぶことでしょう。
「人間は社会的動物である」と自覚して、自然や環境と自分との相依的関係をみいだしているひとは、その相依関係を見出した範囲内で都合の良い情報を選ぶことでしょう。
「家族」までの相依関係、地域社会までの相依関係、自国家までの相依関係、現在地球に生きている人々との相依関係、過去未来を含めての人間・自然との全体的システムとしての相依関係。
 
私は今 織物をイメージしています。
緯糸はある程度自由だけど、迷ってばかり、
そんな緯糸を導いているのが経糸
もどかしいけれど「道なき道」を歩み、織っていきましょう