「行動の変容」と「コミュニケーションクラスレベル」

k1s2013-02-07

「コミュニケーション(communication)」という言葉は、一般にはどのように定義されているでしょうか? あなたはどのように定義しているでしょうか?
 
ウィキペディアには
< ○社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達。
  ○(生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達。>
とあります。
   
更に心理学的解釈として
<たんに情報の伝達にとどまらず、情動的な共感、さらには相手の行動の制御をも幅広く含んでいる>
とあります。
 
「行動」という言葉の意味として、筋肉を使った動きだけでなく、思考や感情の生起も含めるとして、「行動の変容」(行動の制御)を興すことが、コミュニケーションの意図といえるのではないでしょうか。
 
「行動の変容」という視点から考える時、コミュニケーションの在り方として、
○自分の変容は考えておらず、相手の変容を意図したコミュニケーション
○相手の変容は考えておらず、自分の変容を意図したコミュニケーション
○自分も相手も同時に変容を前提としたコミュニケーション
があるように思います。
   
例えば、基本原則として
指揮、命令、喧嘩などは相手の変容を意図しています。
相談、医学的・教育的モデルのカウンセリングなどは、相談を受ける自分の側の変容を意図しています。
中には、挨拶や社交辞令、「いいね」のクリックのように、特に変容をもとめないようなものもコミュニケーションに含める場合もあるでしょう。
(「基本原則として」と表現したのは、意図はそうであっても、実際のコミュニケーションでは相互的なフィードバックがあるからです。例えば、転移や逆転移、抵抗)
   
「話し合い」といったとき、相手を変えるだけでなく、自分も変わることを前提としているニュアンスがあるように思います。
   
人間以外の動物同士の場合、相手の行動を変えようとするコミュニケーションが主であるような感じがします。
    
「ねえ、縁側においでよ。月がとってもきれいだよ。」
『そうね、きれいね』といった会話を、童話ならともかく実際の猫同士でしているとは思えません。
    
「話し合う」といいながら、実は動物レベルの指揮や命令しようとしていることに気づかないことが、人間同士のコミュニケーションでは多く見られることがあります。特に、自分の方が正しいとか自分の方がよくわかっている、権威がある、経験がある、自分は相手を思いやっていると思っているときほど、命令していることに気が付かなかったりします。
   
また、「行動の変容」というとき、○やり方・方法だけが変わる変容なのか ○方法の根拠となっている理論、考え方が変わる変容なのか ○もっと根本的な価値観が変わる変容なのか のレベルの違いがあるように思います。
 
例えば、「なんとか行動を変えたい」と言葉でいっていても、精神分析学を基本としていて、その枠内で方法だけを変えようとしているのか、精神分析学理論ではない他の理論、例えば行動理論に変更したいのか、それとも自分の都合の良いようになるよう他者を変えようとすること自体を変えようとしているのか、といったレベルの違いがあるということです。
 
より実りのあるコミュニケーションが成立するには、お互いが行動の変容を望んでいること、しかも方法や理論だけでなく、価値観の変容を含めての柔軟性がお互いにあることが大切なように思います。
 
将棋の世界には、手合割、駒落ちという対局方法があります。ウィキベディアによれば<棋力に差があるとき、その差に応じて上位者側の駒の一部を盤上から取り除いた状態で開始する。これを駒落ち(こまおち)という>とあります。
 
話し合いコミュニケーションの目的は、相手に勝つことではないので、レベルに合わせて駒落ちをし、「待つ」ことも大切なのでしょう。
 
夫婦や親子のコミュニケーションにおいては、「話し合う」と言いながら、ついつい、待ちきれなくて、太陽ではなく北風になってしまい、自分の期待に沿った相手の変容を求めてしまったりします。
 
「あなたの好きなようにしなさいよ」とか、「あなたが決めて、それに従うわ」というのは、実は命令であったりします。(このことについては、また別の機会に)