ともかく観ること、表現すること、関わること

 現在、日本人の平均寿命が、男女とも80歳を超えています。
 
 その平均寿命に近づいた頃、何らかの病気、例えば癌になってこの世を去るとしても、それまで食べていくには困らないほどの年金があり、医療費や葬式代もねん出できると見積もれるとしたら、それは、今この時、「ある程度の救い」「片目をつぶった状態での救い」にはなることでしょう。
 
 そういう見積もりがつかなくて、貯金もない人だっているのですから。
 
 年間、約3万人の人が、自死を選ぶのですから。
 
 しかし、人生は、自分の思うように進むとは限りません。
 
 50歳代の人が、胃の不調を感じ、診察をしてもらったら、既に膵臓にも転移していた、ということだってあり得るのですから。
 
 そういった時、年金の保証はどれくらいの救いになるでしょう。
 
分かり切ったことですが、
 お金は大切です。しかし、お金だけで救いにつながる訳ではありません。
 
 朝、職場にアマゾンで買った「カインの末裔有島武郎著 岩波文庫が届きました。
 すべきことはいっぱいあるのですが、読みはじめました。
 
 明治の頃の北海道を舞台にした、放浪農民の物語です。
 
 ここに書かれているようなそのままの暮らしは、日本中を探しても今はないでしょう。
 
 しかし、精神的には同じような状況があるように思います。
 
 
 私達は皆、その血統の重荷を背負って生きているように思います。
 そしてまた、血統だけでなく、時代社会の重荷を引き継いで生きているように思います。
 
 そして、このたびは、放射能というとてつもない重荷を次の世代に残してしまいました。
 
 セシウムで汚染された食品をめぐって、テレビ新聞が色々報道していますが、いくら食べるのを避けても、避けようがなく、その害が実際に出てくるのは数年先のことでしょう。
 広島長崎でもあったように、病名のつかないぶらぶら病も予想されます。
 
 「苦杯を飲むこと」「表現し関わりを持つこと」そこに救いがあると思っています。
 
 やっかみ半分ですが、かつて、会員の中の多くの人が公務員であったある研究団体に入会していました。不景気という言葉を知っていても、毎月同じ、もしくは昇給する収入がある生活をしていると、実感として感じていないんだなあ、と思いました。
 
 有島武郎の「カインの末裔」 長塚節の「土」 そして小林多喜二の「防雪林」というひとつの系譜を見出すことができるそうです。
 
 血統の重荷を背負うという点で、
 有島武郎氏と中上健次氏を並べてみてしまうところがあります。
 40歳代で有島武郎自死し、中上健次さんは、癌で亡くなりました。
 そして今も生きています。