私の何気ない日常の一つの行為、例えば、今こうしてパソコンに向かって文章を打ち込んでいることや、さっきの昼休みに、知り合いのパン屋さんに行って天然酵母のパンを買ったことは、なによって生まれているかを考えた時、自己保存本能(食欲)とか、欲望といった原因論風な原因だけでなく、またその原因の中に目的因(あすの朝、お客さんに食べてもらおうという思い)を含めるだけでなく、もっと大きな生命の流れが私の行動を生み出していると私は感じています。
環境因とか、歴史風土(成育歴、家風など)、文化とか、最近接領域とかいった表現もできるでしょう。
大きな生命の流れの中にいながら、余りにもその流れの中にいる自覚が足らない、流されているだけで、流れている自覚がない、よって、「泳ぐことができない」と常々感じています。
簡単に表現すると、
「自分の生きている社会の歴史を知らない。
よって、少しの波がやってきても、じたばたしてしまったりします。」
「そんなこと知らなくとも、目の前の事を大切にしていれば、十分生きていけるではないか」と居直っていた時もありました。
ところが居直って居れないようなことがありました。
長年師匠と仰いでいた人にたいして、その言動に納得できないことを感じるようになり、その人の語る歴史にうなずけない。なんか変だぞ、と思うのだけど、どう変に感じるのか表現できない。
そこから、歴史を学び直すことにしました。
(客観的で正しい歴史があるとは思っていません。だから私がこの世界を泳ぐための歴史物語を作ると云ったほうがいいかもしれません。)
学校で習った歴史は、受験用の歴史知識であって、学び直すというよりは、やっと学び始めたといった方がいいと思っています。
何を軸に学ぶか、税の変化を軸にするということがあります。戦争の形態の変化について学ぶという方法もあります。
明治以降のことについてなら、文学史に添って学ぶのも面白そうです。
熊野新宮地方に、一番最初に教会を立てた(明治17年)のは、大石誠之助の兄、大石余平です。
当然のことですが、当時の信仰者の広がり方、求め方と現在の広がり方は同じではないと感じます。
明治以降の近代文学を見た時、 内村鑑三、有島武郎、荒畑寒村、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、国木田独歩、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治 いずれもキリスト教と深い関わりがあります。
「近代文学とキリスト教」というテーマの文献も数々あるようです。
過ぎ去ると書いて、「過去」ですが、受験の為でなく、今をどう生きるかと求めて、文学史を辿った時、彼らは生きています。今ここと繋がっています。
生命の大海が、どこから流れてどこへ流れたのか、流れて行こうとしているのか、わかりません。
分かったこともあります。「国家」とか「恋愛」とか「家族」とか「教育」とか、大海の中で、ゆるぎない島と思っていたものごとが、それもまた島のように見えても「浮島」であるということです。