ときはながれ、ときはめぐる

 私達は、私達の人生より短い時間なら実際に味わうことが出来る。例えば1時間人を待つとか、1年かけて絵を描くとか。
 では、自分の人生より長い客観的物理的時間をどうやって味わうこと、体験することが出来るのか、単純に考えると出来るはずがない。何かに託すことでしか味わえない。それは「あや(レトリック)」あることばであり、想像や比喩であろう。そしてそれは客観的物理的時間ではなく、霊的生命的文学的詩歌的瞑想的時間ではないだろうか。
 そしてそれは均等均一な時間ではなく、伸びたり縮んだりする時間であろう。そうしないと、数十年しか生きられない私達が、46億年地球生命の歴史とか1光年をどうやって味わえるというのか。
 ときは流れ、ときは廻り、伸び縮みし、ときは積み重なる。

 私の一年とあなたの一年は同じではない。あなたの一日と私の一日は同じではない。そんな私とあなたが、共に生きて、共に過ごす時間は、永遠の時間。共に生きて対話しているとき、時は廻る。積み重なる。うっかり過ごすと、それは虚しくただ流れ去る。