全ては縁

 脳挫傷の傷を受けた方、脳梗塞を発症された方が、その後接骨院に来院することがあります。

 といっても、脳挫傷脳梗塞のリハビリは、接骨院の業務適応外です。
正確に言うと、以前発症した体験があり、一応治癒、症状固定といわれ、後遺症を持ったまま、その後別の受傷をして来院される方、リハビリの期間中に、不自由な動きゆえに身体のバランスを崩して、頭以外の部位を受傷して訪れる方たちです。
 
 学習や上達のシステムに興味があって、脳科学の本をあれこれ読み続けてきましたが、こういった仕事上の対応もあって、脳科学に関する本はよく読みます。
 
 「脳には、可塑性がある」と私は思っています。
 
 でも、私が学生だった頃は、解剖学でブロードマンやペンフィールドの脳地図を示されて、「いったん脳に傷がつくと、可塑性はない」と習ったように思います。
 
 私は「脳には可塑性がある」とは思っていますが、実際に脳梗塞を発症した多くの人々が、その後可塑性を前提としたリハビリを受けることはまれであると思っています。
 
 まず、全国どの病院でも受けられる訳ではないからです。
 可塑性を前提とした理論、治療法を採用している医師、理学療法士のある病院でないと受けられないからです。
 
 私自身や、私の家族、友人がもし発症したなら、私は可塑性を前提としたリハビリを実践するでしょう。
 
 脳梗塞を発症し、その後一般のリハビリを受け、症状が残ったまま、治癒、症状固定と言われ、私の接骨院に訪れた方にも、脳の可塑性についての情報については、伝えます。
 病院ではこれ以上の改善は無理と言われた人が改善することを、文献だけでなく、実際に体験しました。
 
 でも、病院で症状固定と言われた後、新たにリハビリを受ける時は、大体保険適応外になっていることが多く、実費でリハビリを受けざるをえません。
 地方に暮らしていると、そういったリハビリを実践している病院を見つけ出し通院するのも大変です。
 
 そういう過程を観ていると、脳梗塞だけでなく、人が病気になったり怪我をしたりし、その後回復していく過程は、単純な一因一果の世界ではなく、縁起の世界、システム論の世界、複雑系の世界に属することだなあと思います。
 (「縁起・縁生でない事柄などあるのかい」と道元禅師にいわれそうです。)
 
 脳に可塑性があるのかないのか、という議論は、たんに可塑性のことだけでなく、要素論とシステム論の観方の違いでもあるように思います。
 
 脳の可塑性を述べた本であっても、根本では要素論的な観方をしているなあと感じる本があったりします。
  
 例えば、右脳と左脳を対立視するような内容の本です。

 左脳と右脳は同じではないでしょうが、全然別のものでもないでしょう。
 
 ある本にはこう書いてありました。
「左側の前頭葉の活動が右側より著しく高い人は、元気と熱意と喜びといったプラスの感情が多かった。」「一方、右側の前頭葉がより活発な人は、心配、不安、恐れ、悲しみといったマイナス感情が多かった。」

 確かに、そういった感情と左右の前頭葉の活性の対応は観察されることがあるのだと思います。
 
 しかし、感情の内容に対応して、左右の前頭葉の活性化の差は観察されるとしても、前頭葉が感情や幸福感の「原因」であるとはいえないと思います。
 
 また、部位は明らかではないのですが、左側の脳に出血があり、その時に、幸福感を味わったという報告もあります。
 
 ある個人の抱く感情とか行動は、皮膚に包まれた内界の何かだけが原因であるとは思えません。また、幸福感も、宗教的な喜び体験も内界でのみ起こるとは思えません。
 
 「皮膚が、私と外界を分ける絶対的な壁だ」とは思えません。と同時に、「境界など一切ないのだ」とも思えません。
 
 「絶対的な、実体としての境界があるわけではない、かといって、境界が一切ないわけでもない」こういう見方を、複雑系といい、システム論といい、空といい、縁起といい、構成論といい、カオスの縁といい、インタラクション、関係論、あるいは語用論、というのだと思っています。
 
 ともかく、脳の傷を受けた人には、関節可動域を広げるリハビリや、筋力を高めるリハビリももちろん大切ですが、脳のシステムの回復をはかる治療が必要だと思います。
 
 でも、何事にも永遠に続く「過渡期」があるのでしょうね。
 たどり着くことが目標ではなく、目標でないのでもなく。