癒しと住処 「ひねくれ一茶」と私たち

k1s2013-02-28

 「これがまあ ついのすみかか雪五尺」 一茶
  
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」
(マタイによる福音書 第6章25-30節)
    
私の青空 My Blue Heaven (1927)
作詞:George Whiting、作曲:Walter Donaldson
日本語詞:堀内敬三、唄:二村定一榎本健一
   
夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿(たど)るは わが家の細道
   
せまいながらも 楽しい我家
愛の灯影(ほかげ)の さすところ
恋しい家こそ 私の青空
 
 
基本的に、大人の動物にとって、日々の糧を得るということは、疲労あるいは苦労を伴うことだと、私は思います。
 
疲れた心身を回復させるために、雨露をしのぎ、眠るところが、「住処」です。
 
人間にとって、その住処が必ずしも心身の疲労を回復させる癒しの場であるとは限りません。
 
両親の不和は、子どもにとって大きな負担です。
更に、親や兄弟姉妹から、仕打ちを受けることもあります。
 
「我と来て遊べや親のない雀」一茶

3歳で母と死に別れた一茶は、継母との折り合いが悪く、14歳で信州から江戸へ奉公に出ます。以後晩年まで、漂泊の暮らし。
 
住処が癒しの場とならないときに、日々の心身の疲労を癒す一つの方法として、瞑想があります。
 
仏教では、瞑想のことを、「念処」といいました。
そして、一番の基本が、身念処、自分の呼吸を観つめることです。
 
「私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている」と呼吸を観つめていると、今ここに意識が集中し、過去や未来にまつわる悔みや心配が、消えていきます。
 
これは「止観瞑想」の「止瞑想」にあたります。
  
もし、今住んでいる住処が、癒しの場でないなら、どこか自分のパワースポットとなる場所を見出すか、この呼吸法によって、いつでも何処でもをパワースポットにするという方法があります。
 
同様に、今目の前にある対象をじっと丁寧に見つめる、ということでも同じこと「止瞑想」が起きます。絵を描く、俳句を詠む、といったことが瞑想、念処になります。
   
とはいえ、呼吸を観つめるだけで、今ここに意識を集めるだけで、人間が生きていける訳ではありません。
 
一旦、意識が今ここに集中され、悔やみや心配から離れることができると、次には「関係」「縁起」にも意識を向けることができます。

「よくみれば薺花咲く垣根かな」 芭蕉

息をするにも、関係があってのことです。
「空気」があってこそ、息ができます。
その「空気」は、私が創りだしたものではありません。
 
関係や縁を離れて生きてはいけません。
 
そこでまた、「念処」にかえります。
日々の糧を得る、ということは、基本的に疲労の伴うことだと思います。
 
「動物」の「動物たる由縁」は、日々の糧を得るため動かざるを得ないから「動物」です。
 
「動物」は、採集し、狩りを行います。
「人間」もまた、最初はそうだったのでしょう。
 群れの単位で、自給自足の暮らしをしていたことでしょう。
「自給自足」と言っても、群れを取り巻く「自然環境」あってのことです。
 
今、私達の住んでいる環境には、私達人間自身が作り出した放射能が飛んでいます。
化石燃料などを燃やすことによって生まれるPM2.5(微小粒子状物質)は、粒径が小さいため(髪の毛の太さの1/30程)、肺の奥深くまで入りやすく、呼吸器系や循環器系への影響(気管支ぜんそく、肺がん、動脈硬化脳梗塞心筋梗塞)が懸念されています。
 
私達は文明の力によって豊かになりましたが
同時に、雨露をしのぐだけではなく、放射能PM2.5をしのぐ住処が必要になりました。
 
悔みも心配も、悩みも「関係」「文脈」があって生まれます。
 
呼吸を観つめること、意識を今ここに集中することで、
一旦関係や文脈から外れても、又帰ってこなくてはなりません。
 
一方の足が大地を踏んでいて、もう一方の足は動くことができます。
その動いていた足が大地を踏んで不動となり、今まで不動だった足が動くことによって私達は歩くことができます。
 
これがまあ ついのすみかか四人部屋
 
人生の最期を、病院や老人施設で迎える人が増えています。
 
国民年金を20歳から60歳まで、40年間納入し、
65歳から、月約6万円余りの支給です。
先程の養護老人ホーム4人部屋だと、月7万必要です。
 
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:25-34)
 
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイによる福音書10:28)
 
国連によれば、世界人口は約70億人
地球上で生産される食糧は、120億人分
でも、一日10万人の人が飢えで亡くなり、
10億人の人が飢えています。
 
なぜ?
 
かつてバナナは、ジャマイカの主たる輸出産業でした。
今は、かつての宗主国イギリスへ輸出する分のみ生産しています。
 
Banana boat song 作詞:L.Burgess・W,Attaway

Day-o, day-o
Daylight come and me wan' go home
Day, me say day, me say day, me say day
Me say day, me say day-o
Daylight come and me wan' go home

Work all night on a drink of rum
Daylight come and me wan' go home
Stack banana till de mornin' come
Daylight come and me wan' go home

Come, Mister tally man, tally me banana
Daylight come and me wan' go home
Come, Mister tally man, tally me banana
Daylight come and me wan' go home
 
バナナ・ボートは、ジャマイカの歌です。
今、ジャマイカの国家予算のうち、52%は借金の返済に使われています。
なぜ?
 
 
「西にうろたへ東にさすらひ、一所不在の狂人有。あしたには上総に喰い、夕には武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、立泡の消やすき物から、名を一茶坊といふ」
 (「寛政三年紀行」1791)
寄る辺なき身の、茶の泡のごとく消えやすいものという意味で一茶と自らを名づけました。

「待ち待ちし桜となれど一人かな」一茶
「衣更えて坐ってみても一人かな」一茶
「小言いう相手の欲しや秋の暮れ」一茶
 
「小言いう相手もあらば今日の月」一茶
「蝶見よや親子三人寝て暮らす」一茶
 
「露の世は露の世ながらさりながら」一茶