存在と認識の二重性 内言・外言

「モノ」や「こと」の存在が先ですか、それとも「名前」が先ですか、と問われたら、殆どの人は「モノ」や「こと」の存在の方が先、と答えることでしょう。先ず「モノ・こと」の存在があって、その一つ一つに対して、私達が名前を付けているのであると。

その理由として、赤ちゃんが生まれてきて、未だ命名していなくとも、赤ちゃんは存在し生きていること。同じモノ・ことに対して、国によって名前の付け方が違うこと。外国へ行って、珍しいものを見せられ、その名前を知らなくても、モノそのものは目の前にあること。赤ちゃんや動物はモノやことの名前を知らないけれど、それでも赤ちゃんや動物の周りにモノは存在していること。などが理由として挙げられるでしょう。
 
例えば、スプーンとフォークで育った外国人が、初めて「箸」をみたとき、「箸」という言葉を知らなくとも、箸そのものはあるではないかと。
(他にどんな理由が考えられますか?)
 
モノそのものの存在、「存在論」という視点からはそう思えるかもしれません。
しかし、次に、私達「人間」が様々な存在をどのように認識しているのか、私には世界がどのように見えているかという視点「認識論」から見てみると、モノが先とも言い切れません。
 
例えば、子どもがままごと遊びをしていて、お人形に向かって、「起きてくださいよ。会社に遅れますよ」と話しかけているとして、その子どもは、会社の存在・実体を知っている訳でもありません。カイシャという言葉の意味を知らないまま、父親を起こす時に使われていることだけを知っていたりします。
 
「無意識」「トラウマ」「愛」「自由」「死」「涅槃」「縁起」「疎外」「地域通貨」といった言葉において、モノやことが先でしょうか、それとも言葉を知ることが先でしょうか?
私はどちらが先ということではなく、二重性(色即是空、空即是色)だと思っています。
 
言語学者丸山圭三郎は次のように説明しています。
<「名づける」という行為は、実は、二つの全く異なる作用をもっているのではあるまいか。旧約聖書の「創世記」の次の二節は有名である。「神、光あれと言ひ給ひければ、光ありき」(第一章三節)。
「エホバ神、土を以て野のすべての獣と空のすべての鳥を造り給ひて、アダムのこれを何と名づくるかを見んとて、これを彼のところへ率ゐいたり給へり。アダムが生物に名づけたるところは、皆その名となりぬ。」(第二章十九節)。前者では、「光」という言葉によってはじめて光が存在し、後者では、既存の生物たちが、あとからさまざまな名を与えられている。つまり、「名づけ」には、それまで存在しなかった対象を生み出す根源的作用と、すでに存在している事物や観念にラベルを貼る二次的作用の、二つがあるといってよい。>(欲望のウロボロス 勁草書房 1985 151〜152頁)