見えないものを観ようとする目

発達心理学で、早ければ生後4か月くらいから、遅い場合は2歳の段階になれば、隠されたモノの存在や移動を認識できるようになる、と習いました。
 
逆に言えば、平均的に約8か月の赤ちゃんは、目の前にあるモノの存在しか認識できず、自分の視覚や行動とは無関係に「モノ」が存在するということを理解することが難しいといわれます。
 
自閉症と診断された人々が自らの体験を語った本を読んでいると、2歳を過ぎた段階でも、目の前に「見えないモノ」の存在を認識するのが難しかった、という内容が書かれていたりいます。
 
ならば、「定型発達」をすれば、大人になれば、目の前に見えないモノの存在でもなんでも見える・認識できるようになるかというと、そんなことはないと思います。
 
ましてや、見えないシステムや構造になると、なかなか認識できません。
 
日本銀行」という言葉は子供の頃から聞いていても、千円札や1万円札に日本銀行券と書かれていても、どういうシステムでどういう仕事をしているのか、私にはよくわかりません。
 
アメリカ国債を毎年50~60兆円買っているのは、日本銀行
 
自分たちの徴収された税金は、巡り巡って、何処へどんなふうに流れている?
 
地方交付税はどんなふうに交付されるのだろう?
 
そもそも、何処の国をモデルにして、どのように決め、どのように始まったのだろう?
 
地方債の利子ってどれくらいだろう。
 
8か月の赤ちゃんのように、世の中の仕組みが時々見えても、隠れてしまえば、(隠されてしまえば)忘れてしまったりします。
 
でも見ようとするのは大切でしょう。
 
人工物ではなく、人間社会や自然界や人間に対して、私達は、
せいぜい、簡略化や抽象化したモデルを想像することが出来るのだと思います。
 
逆に、モデルを想像や認識しただけなのに、そのモノを観た・わかったと錯覚したりしているように思います。(そもそも、わかるというのは、モデルを形成し、認識することを言うのかもしれません。)
 
 
ですので、モノそのもの、世界そのもの、他者は、永遠に謎のように思えます。
 
謎のまま、こだわりを抱えたまま、特異性を備えたまま、未熟なまま、一緒に笑ったり、泣いたり、触れあったり、響きあったり、それはできるのだと思います。