NPO熊野みんなの家講座資料

イエス・キリストの生涯と言葉を、現代心理学を通して味わい、未来をみつめる講座資料
 
☆ はじめに この講座の意図するところ ☆ (万人のためにはあらず)
 
 仏教には、「一切皆苦」「四苦八苦」という言葉があります。生老病死や人間関係での対立、苛政、生活苦など、いつの時代も人生には苦しみの縁と種(不条理)が満ちています。その苦しみの解決や人生をいかに生きるべきかの「宗なる教え」として、宗教が生まれます。イエス・キリストの生涯と言葉もそのようにして生まれました。
 
 その時代の目の前の苦しみへの対処を具体的に語った「ことば」も、長い歴史の中で姿を変えていきます。翻訳され、編集され、伝播していく過程で、多くの変遷や添加があったことでしょう。
「言葉」は新たに行動や生活と結びつき、時にはその行動や生活が、弾圧を受けたり、あるいは、他の生き方や教えと対立し、戦いになること、弾圧する側になることもありました。
しかし、イエス・キリストの生涯と言葉が、これまで多くの人々の救い、人生の指針となって来たことも確かです。
 そのイエス・キリストの生涯と言葉は、教会の洗礼を受けていなくとも、また、キリストの死と復活による贖罪への確信が伴わなくとも、直接イエス・キリストに尋ね、黙想し、生活実践することでも味わえると、私は思っています。と言って、信仰や同学はいらないと言っているのでもありません。揺れながらも、自分を信じること、人間を信じること、人間の認知を超えた生命ネットワーク全体の力を信じることなくして、人が生きていけるとは思えません。
  
 議論することや批判すること、知識を増やすことがこの講座の目的・意図ではありません。解決志向アプローチ、リフレーミングという心理学的な「偏光サングラス」をかけることで、錯綜する情報の中から、私達が今直面している具体的な苦しみの解決に繋がることがらを抽出し、それぞれが今自分の人生で課題としていることについて何らかの参照になればと思っています。心理学という入口から入って、各自更に奥にある人生の扉を開こうというのが本講座の意図です。
  
○まずは福音書を、人づてではなく、あなた自身の目で読んでみましょう。
 一般に、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の4つの福音書があります。1945年に、あらたにトマス福音書が発見されています。その語り伝えるところは、違いがあり、一致していません。
 例えば イエス・キリストの最期の言葉の記述
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」マタイ、マルコ
 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ルカ 「成し遂げられた」ヨハネ
  
 神学者や宗派間においても、その読み取り方は一致していません。(プロテスタントという宗派があるのではありません。洗礼を受けた信徒においても、みんなが同じように信仰し、実践している訳ではありません。例えば、リベラル派、福音派聖霊派
   
○参考として イエス・キリストが生きた年代 (新約聖書の記述からの推定)
 紀元前数年前にガリラヤの町ナザレに生まれ、紀元後30年代にエルサレムで十字架にかけられた。
福音書を読むとき 時代背景を知っておくことも大切です  
当時、パレスチナ地方は、ローマ帝国支配下にありました。パレスチナの人々は、ローマ帝国からは、人頭税と間接税を徴収され、傀儡のユダヤ政権からは、神殿税、十分の一税を徴収されていました。実際の徴税は、地元民の徴税人が請負い、徴税額以上に徴税し、その差額を自分のもうけにしていました。時々反乱や暴動も起こっていました。
イエス・キリストの受刑後、ペテロやパウロらによって、キリストの言葉は伝道されましたが、厳しい弾圧を受けることもありました。主に奴隷や女性達の間に広まりました。初期には地下墓所カタコンベ)で秘密集会を開いていました。東西ローマの対立をきっかけに、313年にはキリスト教公認、392年には国教となりました。
以後キリスト教は、西欧の文化のバックボーンのひとつとなりました。近代の啓蒙の時代、理性の時代、20世紀の二度の大戦を経て、物質的な豊かさの増大の一方で、貧富の差の拡大、環境破壊があり、21世紀は新しい知性、理性、霊性、そしてそれらの融合が求められているように思います。
    
ユダヤ教
 唯一神ヤーヴェへの信仰と、この神が定めた律法を忠実に守ることを教える。律法に基づく戒律は613、義務が248、禁止事項が365。律法を守らないことは神との契約違反であり、神の怒りを招くが、律法を守ることにより、神の恩恵が得られるとされる。
サドカイ派の人々は、ユダヤ上層社会、貴族祭司や大土地所有者の人々であり、ローマ帝国と融和の政策をとり、パリサイ派である律法学者や小市民層の人々は、律法を一字一句形式的に厳しく守ることで救われるとし、経済的理由などで律法を守れない多くの民衆、小作人、日雇い労働者を差別しました。
     
☆☆ 責任 responsibility ☆☆
  
人生には、受け入れるしかないであろう不条理があります。例えば「死にたくない」というのは、万人の願いでしょう。しかし、私達は「それでもいつか必ず死ぬ」ということに向き合い、自分なりの態度を決めなくてはなりません。
しかし、「死にたくない」「いのちを守りたい」という思いや、「いつか必ず死ぬということを忘れよう」とすることは、いとも簡単に、貪りや過度な物欲、権力欲などに結びつきます(貪)。死ぬこと、飢えることへの不安が姿を変え、他者への怒りや攻撃になったりします(瞋)。そして、そのことに気づかずに貪りや怒りを正当化したりします(痴・無知)。
また、どんなに親しい友人や家族であっても、生や死や、人生の重要な課題に対する態度は、人それぞれです。自分と隣の人とは違うということも不安や、あるいは攻撃になったりします。
 不条理と向き合い、どのような態度決定をするか、その答えは、神が知っているのでもなく、イエス・キリスト、教会、親、先生が答えてくれるのではないと思います。むしろ、私達人間が問われているのであって(小田垣雅也)、応答することが人間の責任(responsibility)ではないでしょうか。
    
○(同じ信仰といっても、神といっても・・・)「ゲッセマネの祈り」から
 「神よ、私の目の前の苦しみ(障害・不条理)を取り除いてください」という信仰もあれば
 「神よ、私の目の前の苦しみを乗り越える力を与えてください。」という信仰があると思います。
そして確かに、信じることによって、力は与えられると思います。
マタイによる福音書26・39                       
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、
わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マルコによる福音書 14章36節 
「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
同じようですが、同じではありません。
    
また、神の子イエスでさえ、あのように願い、その後決意した姿を示すことで、私達が、苦や障害(不条理)を前にしたときの心の動きを支えてくれているように思います。先ずは、人間は揺れ動き、弱い存在であるということ、そして弱きまま乗り越えることもできるということ。死ぬことを恐れなくなるのではなく、おろおろしつつも、恐れていることを自覚し、向き合う姿勢。任せる姿勢。
    
 私がイエス・キリストに興味を抱いたきっかけは、約30年前のあるキリスト者との会話です。「ここに人参の大嫌いな子供がいて、<明日の給食に人参が出ませんように>と祈るのは、キリスト者の祈りではありません。キリスト者は、<嫌いな人参を食べられるよう私に力を与えてください>と祈ります。」とそのキリスト者は言いました。
     
 「不快な事柄から遠ざかろう」とするのは、人間の自然な行動かもしれません。一旦は「ああ嫌だ」と感情が動いたり、原因を考え、取り除こうとすることも。しかし、逃げることなくその不快なことに向き合ってみると、そこで自分の下していた原因や快不快の判断(思い込み・仏教でいうところの仮説ケセツ)への問い直しが生まれます。
 
○重荷を背負ったままの救い 未完成の完成 弁別と般化
現在106歳になられる�亅地三郎さんは、現役の大学教授で、年間約80回の講演もこなし、世界中を駆け巡っています。著書「106歳を越えて、私がいま伝えたいこと」こう書房刊で、健康長寿の秘訣を述べられていますが、そのうちのひとつが、「一口30回よく噛んで、小食にすること」です。
     
 私達は、ご飯を食べないと生きていけませんが、その食べ方は人それぞれです。食事のもつ意味にも色々あります。生理学的に、明日の活力をつけるために食べますし、一家団欒として、祝祭として食べます。お腹を満たそうと食べるときもあれば、味わって、感謝とともに食べたりします。
 時間に追われる現代人は、ともすれば、満腹感のためにだけ食べてしまいがちです。そこで忙しい時でも、一口30回よく噛んで食べることが、日常や人生を振り返り、生命の連なりを感じる瞑想にもなり、健康法にもなります。(消化を促進し、肥満を防ぎ、アルツハイマーを予防します。)
     
 ところが実践してみるとわかるのですが、良く噛むということも、自動車の運転やピアノの演奏や呼吸法と同じで、自然に身につくまでは練習が必要で、実践すればするほど上手になり、楽しくなります。
 生きている人は、誰でも呼吸していますが、瞑想の呼吸法を実践するには練習が必要なように、誰でも食事をしますが、瞑想的な食事(咀嚼道)にするには同じく積み重ねられた実践が大切です。
     
 人生を充実させるには、生きる意義を見いだし、目標を定め、その実現に向かって努力することも大切であると同時に、一瞬一瞬の出会いを大切にすることも大事だと思います。何かに到達しよう、力を獲得しようとすることと同時に、一瞬一瞬大切に味わうこと、委ねることは、同時に起こりえます。過程は到達であり、その到達は過程です(色即是空、空即是色)。
      
 よく噛むというのは、回数を数えることが大事なのではなく、香りや食感を丁寧に感じること(弁別すること・焦点的意識)が大事です。また、違いを感じるということには限りがなくて、ある程度の弁別ができるようになると、自分で弁別の度合いを調整すること、違いに拘らないこと、全体との関係を見出すこと(般化・補助的意識)が大切になってきます。(自閉傾向にある子供の苦しみのひとつは、過度に弁別・焦点化・差異化してしまうことです。)弁別する力(違いが分かること)と般化する力(共通性を見出すこと)のバランスと階層性は、何事においても上達の秘訣です。まずはよく噛むこと。
     
小田垣雅也氏が、HPの中で次のように書かれています。(以下引用)
     
< マイケル・ポランニーは「暗黙知」ということを言っている。これは人間の知識は「暗黙知」に基づいているという主張だが、大学の演習でポランニーを読んでいたとき、人間の知識には「補助的意識」と「焦点的意識」という二重の意識があって、われわれ人間の意識はその両方を、同時に自覚していないと、知であることはできないというものである。しかし両方を一度に意識することは人間にはできないから、われわれの意識は「焦点」に集中するか、「全体」を構成する補助的意識を意識するかのどちらかになる。しかし「焦点」と「全体」を一度に二重性的に見ることは知識成立上、必要であり、だからそれは高度に「個人的な」知識であるということになる。本当の知は、それをある完結した概念として(概念は必ず完結している)伝達することはできない。それを「暗黙知」と言うのだ、という主張であった。職人の芸とは、元来そういうものだろうと思われた。>
http://domingo.cafe.coocan.jp/mizuki/sermons/sermon0608.html
      
 ゴルゴタの丘の3本の十字架 
  39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書 二三章三三節〜四三節)
     
私達は、「全体・すべて」という言葉を知っていますし、日常生活の中でも頻繁に使用します。しかし、「全体・すべてという言葉を知っていること」と、「全体・すべてを知っていること」は同じではありません。例えば、車の運転が出来る人は、自動車全体を動かすことができます。しかし、だからと言って、自動車の全体・全てを知っている訳ではありません。私たち人間には、世界のすべてを認知できる力は備わっていないように思います。(我ら死に冥し生に冥し。なれど、金剛の露ひとつぶや石の上)
     
イエス・キリスト釈尊      形而上学的な問いと苦しみについて
      
 釈尊の生涯と言葉も、経典となり、翻訳され、伝播する過程で、多くの編集、添加、変遷がありました。変遷がありましたが、釈尊の言葉の内容を変わることなく特徴づけていることのひとつに「無記」が挙げられるでしょう。「無記」とは、「苦しみの解決に繋がらない、ある種の形而上の問いかけには、回答しないこと」を言います。
「無記」については、阿含経中部経典「毒矢の喩え」がよく取り上げられます。
      
 釈尊は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、何も語りませんでした。釈尊は、「具体的な苦しみの生滅(解決)とその生滅の構造(色受想行識・五蘊)」について語りました。
     
 苦しみのことを、インドの古語バーリ語では「dukkha:ドゥッカ」サンスクリット語では「duhkhaドゥフカ」、といいます。語源の意味は「思い通りにならないこと」です。
     
 何らかの「目標」や「理想」「予定」を定め、その思う通りにならないとき、「これは、私の思い通りでない、苦しみだ」と断定するから、苦しみ・劣等感となる、という意味が、duhkhaという言葉には含まれています。
    
 つまり「<これは苦しみである>と断定するから、苦しみとなる」と仏教では言います。
     
 そこで、とても物分かりのいい人々は、「<これは苦しみでない>と断定すれば、苦しみでなくなる」と語り始めます。いわゆるポジティブシンキングな人々の捉え方です。
    
 ポジティブシンキングとは、「息子が30歳になるのですが、今引きこもっています。こんなはずではなかったのに。私の育て方が悪かったのでしょうか。」と苦しんでいる人に、「よかったですね、毎日家に留守番してくれる人がいて。」といった判断の切り替えをいいます。
    
 しかし、ここに何事かをきっかけに腹を立てている人がいて、その人に、「あなたが<これは腹が立つことである>と断定するから腹が立つのですよ。」と仏教は言っても、「<これは腹が立つことではない>」とまでは主張していません。しかし、「あなたがこれは腹を立てることだと判断したから、腹が立つのですよ」というと、多くの人は、この人は私に「<これは腹の立つことではない>と主張している。」と捉え、「どうしてこれが腹の立つことでないのか?」と反発しがちです。
     
仏教は、ポジティブシンキングや反論のレベルを語っているのではありません。「これは苦しみである。」というのも「これは苦しみではない。」というのも共に「仮説(けせつ)・準拠枠・フレーム・限られた見識にもとづく断定(空)」と伝えています。
    
 何事かをきっかけに、「苦しい」という思いを抱いたり、「腹が立つ」という感情が生まれたとき、仏教徒ならば、「これは苦しみではない」とか「これは腹が立つことではない」と自分に言い聞かせるのではなく、「あ、今自分は、自分の仮説(けせつ)に基づいて、苦しいと言っている、腹を立てている」と自分をみつめます(色受想行識)。つまり、何らかの瞑想訓練を続けることによって、自分を見つめ、苦しみや怒りから離れようとします。瞑想を実践していないと、自分の仮説に基づく断定であると気づくことは難しくなります。それで、仏教徒ならば、苦しみの解決の為に、止観瞑想を勧めることでしょう。そして、日常生活の中で常に止観瞑想を実践できる人というのは、ある意味で「強い人」でしょう。
    
 そういった強さを想う時、私はイエス・キリストを思い浮かべます。
    
「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』
  
On hearing this, Jesus said to them, "It is not the healthy who need a doctor, but the sick. I have not come to call the righteous, but sinners.
   
釈尊も、ある何事かで嘆き悲しんでいる人に、「これはあなたが、悲しくて苦しいことだと断定しているから嘆き悲しみ苦しむのだ。」と直ぐに諭したわけではありません。
    
< 裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。

この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎釈尊のもとに行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いて行った。

釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。>
(パーリ、長老尼偈註)『和英対照仏教聖典』187頁16行〜189頁15行
   
永久の未完成これ完成である 宮沢賢治
   
ともに学びあいましょう