アダムとイブとスマホと林檎

自分が観たこと、感じた事を、表し、伝えるのに、「ことば」を使います。その「ことば」は、自分自身が創ったものではなく、殆どは、生まれる以前から、既に社会にあった「ことば」です。
 「ことば」は、母語であったり、方言であったり、外国語であったり、あるいは、絵や音楽、ダンス、身振り、であったりします。私たちは、「ことば」と共に成長します。その「ことば」は、自分が観たことをすべて表せるわけでもありません。
 それで禅宗では、「ことば」を「月をさす指」に例えたりします。これは「ことば」を軽視しているのではありません。指(ことば・記号)は、月の方を、きちんと指すことが大切です。
 人は、「ことば」と共に成長します。日常会話ができるからと言って、探求をやめると、成長が止まります。
 例えば、目の前に林檎があって、その場にいない人に、林檎を食べていることを、スマホなどで、伝えることができます。しかし、その林檎の味は、食べてみないとわかりません。どんな風に味わっているかは、ソムリエのように、ことばを駆使して伝えることができます。でも、味そのものはわかりません。もどかしくなって、スマホの相手がその場にやってきて、同じ林檎を齧ったとします。その場合でも、「味」は同じではありません。むしろ、同じでなくて、いいのです。ふたりは、林檎を食べているだけでなく、お互いを齧り、味わっているのですから。
 禁断の林檎を勧めてくれたイブさん、ありがとう。毎日毎日、一瞬一瞬、誕生日。愛でたい、愛でたい。
2人、リンゴ、テキストのイラストのようです
 
 
 
 
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