一瞬一瞬の、何気ない想い、感情、思考、ひらめき、仕草も、実は、沢山の因、果てしない流れの蓄積、来歴の上に成り立っていると思います。
(皆由無始貪瞋癡)
だから、その流れを変えることは、そう簡単ではないと。
そしてまただからこそ、今ここが始まりに成ると。
それまでの一切のものごとをゆるし、我が身の全てをゆだねる最大のチャンスのひとつが「臨終のとき」だと思います。
私はそれに近い経験をしたことがあります。
20歳前半の頃、独りで東南アジアへ放浪旅に出かけ、タイで赤痢に成りました。
人生のこれまでで味わったことのない頭痛と腹痛に見舞われました。
どす黒いドロドロの腸壁が絞り出されるように出た後もまだ痛みは続きました。
ああこんなに痛いのなら、死んだ方がましだ、と思いました。
痛みがピークに達した時、突然それまでの痛みがピタリと止みました。
ああ自分はこれで死ぬのだなと思い、全てをゆだねました。
大地に包まれた感じになりました。
南無阿弥陀仏という言葉があります。
南無とは帰依するという意味、ゆだねるという意味を持ちます。
以前にも書きましたが、一遍上人の在家のお弟子さんが
「南無阿弥陀仏」と称えると極楽往生することを疑いはしませんが、臨終のその時、はたして南無阿弥陀仏といえるかどうか、自信がありません。」というと
一遍上人は、「その時のことは知らぬ、でも今ここで南無阿弥陀仏と言えないものが、その時に言えるだろうか」と返事されたそうです。
今日、「祈りの生まれる時」 アントニー・ブルーム著 エンデルレ書店発行 が届きました。
「ひらすら主のことを知りたいという願いを抱いて広大な宇宙をみつめてみても役には立ちません。そんなことをするのは止めて、隣人―つまり、その者の存在することを神が望まれ、そのためになら御自分の命を落とすことまでも肯んじられたーに注目しなければならないのです。」
とありました。