のろまさ、弱さ、枯れること、死ぬことにも価値を

要素対立二元論では
世界を、「A」とAでないもの「非A」に分けます。「A」と「非A」 はお互いに相容れないものとします。「A」は更に、「Aα」と「A非α」に分けられていきます。
 
肉体と精神、男と女、本能と学習、環境と生体、意識と無意識、科学と宗教、野性と理性、表と裏、汝と我、
 
分けるだけでなく、どちらか一方にだけ価値を置き始めたりします。
「生き延びることは、勝者であり、価値があり、死ぬことは敗者である」というふうに。
 
「生き延びる」ことのみを勝者とし、価値があるとするなら
やがて必ず死ぬ人間の最期は、敗者と捉える事になります。
かくして、「死」を隠蔽し始めたりします。
 
「A」と「非A」に分けることは、生き延びていくには必要で便利で、有用なことだったと思います。

でも、世界を「A」と「非A」に分けるのは、人間の側が仮に分けたのであって、世界がそのようにわかれているかどうかは分かりません。
 
日本人は、お水とお湯にわけますが、熱くても冷たくても、英語では「water」です。水だけでなく、川、湖、海などの水のあるところ、涙や尿など液状のものも「water」で著わします。
 
ましてや、分けるだけでなく、どちらか一方にだけ価値があることにしたのも、人間の側です。

私達は、全体の中に組み込まれているので、一方の価値あるもの側だけを選ぶことはできません。
 
「生き延びること」に価値を与えるのであれば、「死ぬこと」にも価値を。
「豊かさ」に価値を与えるのであれば、「貧しさ」にも。
「若さ」に価値を与えるのであれば、「老いる」こと、「枯れること」にも。
「強さ」に価値を与えるのであれば、「弱さ」にも。
「スピード」に価値を与えるのであれば、「とどまる」ことや「のろまさ」にも。
「雄弁」に価値を与えるのであれば、「寡黙」や「沈黙」にも。