共動 ゆだねつつ働き掛ける

カルバンやカルバン主義について語るのは難しい。
第一に、私はカルバン自身が書いた原著を読んだことがない。だから、カルバンがどのような考えを本当は抱いていたのか知らない。
カルバン主義については、これも同じく、カルバン主義に基づいた何らかの著作を読んだことや生活を味わったことがないから、本当のカルバン主義については何も分からない。
私が知っているのは、カルバン主義について書かれたいくつかの解説文だけである。
 だから今書こうとしているのは、カルバン主義についてのコメントではなく、カルバン主義の解説を読むことをきっかけとして、私が私の中で、「救済」について考えたことである。
 
 カルバンは、予定説を述べたといわれている。

「人間には、神の救済に与る者と、滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。
予定説に従えば、その人が神の救済に与れるかどうかは、予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる」といった解説がされる。こういった解説も正しくカルバン主義を解説しているのかどうか分からない。

 これらの文章をきっかけに考えたのは、救済とは、単に寿命が延びたりすることではないだろう、いや、他の人にとってではなく、自分にとっての救済とは、寿命が延びたりすることではない、物質的に豊かになるとか、現世御利益でもない、ということです。そういった意味で、善行をつんだからと言って、現世御利益が得られるわけでもない、と思います。

 この世は、線形システムで変化するのではなく、非線形複雑系システムで動いているということ。
 「善行をつめば、現世御利益が得られる」といった線形的なコントロールは難しいところ。
 
吉永良正著 「複雑系」とは何か 講談社現代新書によれば
複雑系とは、
「無数の構成要素からなる一まとまりの集団で、各要素が他の要素とたえず相互作用を行っている結果、全体としてみれば部分の動きの総和以上の何らかの独自のふるまいを示すもの(15頁)」「ここの反応は決定論的で規則にしたがっていても、全体としてはそのような部分の和には還元できないふるまいを示す現象(28頁)」
 
 私達は「救い」という言葉を使って、ものごとを考えたり、話し合ったりするけれど、有意義な思考や話し合いとするには、「救い」という言葉の意味を確認してから始める必要があると思っています。
 
 では、私にとって「救い」とはなにか?
 私は全体の中に組み込まれている、と自覚し、そのように生きること。
 複雑系システムの中に組み込まれつつのハーネシング
 目標目的追求の棚上げ
 三輪清浄の布施 発菩提心
 I’m sorry.
 有り難う
 ○
 十牛図の第10 入鄽垂手
 貪瞋癡から離れること。
 野辺の花よ、おいらもそのように
ゲッセマネの庭の祈り
 救いという言葉を忘れ去ること