コントロールとハーネシング(Harnessing)

複雑系」あるいは「非線形」という概念があります。この概念を理解することは、数学学者や物理科学者、経済学者などの専門家だけでなく、一般の人々にとっても大切なことだと思っています。

しかし、この言葉は、一般の人にはあまり馴染みのない言葉だと思います。私自身、色んな本を読んでいる中で、この言葉に出会った訳ですが、その概念が理解できなくて、関連する本を十数冊読みました。読んでますます分からなくなる本もあれば、私のような初心者にとっても、これは違うのではないかと思う本がありました。

そのような私でも、「今日、如何に生きるべきか」の日々の問いかけと瞑想と祈りと太極拳実践の中で、おぼろげながら、私なりの概念が作られて行きました。そのことによって、生きる上での様々な問題に対する態度や方針も、整理されていきました。

 私のこの体験を伝えることは、様々な困難に直面していて、どう対処すべきか、方針を決めかねている人々のうち、ある人々の助けに、少しはなるのではなかろうかと思っています。そこで、私なりの「複雑系」「非線形」そして「ハーネシングHarnessing」理解について語ろうと思います。
 
 「複雑系」とはどういう概念なのでしょうか?

複雑系」について語る以前に、「人間が生きる」ということを、もう少し長い文章で著わす必要があると思っています。
 
 「人間が生きる」ということのある一面を文章で表現すると、「様々な経験から、未来を予測し、自分にとって都合がよい未来となるよう、自分自身や他者、環境に対して働きかけ、操作、コントロールすること」と表現できると思います。
 
 「未来を予測し、制御する」にあたって、様々な現象を観察し、そこに法則性を発見、あるいは仮構し、その法則性に基づいて、論理的に未来を予測し制御すること」が「(従来の)科学」という概念であると私は思っています。
 
 法則性は発見されるのか、仮構されるのか、私は「認知論」や「観察の理論負荷性」という考えをもとに、仮構されるという考えなのですが、今はそのことは脇に置いておきましょう。
 
さてその法則性なのですが、法則性を発見あるいは仮構する時、私たちは世界をより細かく部分に分けていって、その部分の中に法則性を見出し(仮構し)、それらの部分の総和として全体があり、法則性があるとしてきました。

 「全体を知る為には、より細かく部分に分けていって、そこで得た知識を総合させること、全体は部分の総和である」これが従来の科学の態度だったと思っています。
 それに対して、「全体は部分の総和以上のものである」というのが、「複雑系」の捉え方と私は理解しています。
 
 十数冊読んだ本の中で、おぼろげながら私なりの概念理解に繋がったのが、< 吉永良正著 「複雑系」とは何か 講談社現代新書 >です。
 
 15頁には、<複雑系とは「無数の構成要素から成る一まとまりの集団で、各要素が他の要素とたえず相互作用を行っている結果、全体として見れば部分の動きの総和以上のなんらかの独自のふるまいを示すもの」とあります。
 
 「複雑系」「科学」「法則性」などを理解する時、更に大切なことは「言語の働き」について自覚を持つことだと思っています。
 
 科学的にものごとを観察し、ものごとを語るとき、先ずそこで使われる「言葉の定義」「観察対象とする定義域」を厳密に行います。つまり、この世界全体は、言語で「語りえる世界」と「語りえない世界」があり、科学が扱うのは、「語りえる世界」の領域についてである、という自覚があったと思います。

 それがいつしか、語りえる領域が増えるにつれ、いつしか「語りえる世界」が世界全体である、その世界は科学技術によって制御、コントロールできると錯覚してしまったように思うのです。
 
 私たちがものごとを細かく分けて観察し、法則性を見出し(仮構し)、思考し、整理し、報告するにあたっての道具は、感覚器をもつこのからだと「言語」です。
 
 全体を理解するにあたって、私たちの感覚器の働き・能力には限界があり、また言語の働きにも限界があるということを自覚することが大切であると思っています。
 
 「複雑系」とか「非線形」という概念が今まであまり馴染みのない概念だから、そういうシステムも最近になって生まれた新しいシステムのように思ってしまったりしますが、言葉は新しくてもシステムそのものは昔からあるものです。先ほどの著書の中にある例として、パチンコ玉の軌跡、癌などの病気、タバコの煙、蟻の行列、枯葉が散ること、などあげられています。
 
 世界の側に「複雑系」と「複雑系でないもの」というものがあるのではなく、私たちの側が、語りえる世界だけを世界と思い込み、世界を複雑系と捉える視点、世界は人間が自分の想いのままにコントロールできるものではないという視点をいつしか欠いていったのだと思います。
 
 私達は、花を育て、稲や小麦を育てることはできます。しかし、花そのもの、稲や小麦そのものを創り出すことはできません。太陽光を利用して、電気を生み出せても、太陽光そのものを作り出せません。風力や波力を利用して電気を生み出すことができても、風そのものを生み出すことはできません。
 
 太極とは、世界を仮に陰陽に分ける以前の全体のことを言います。太極・易の見方では、やはりこの世界は語りえる世界と語りえない世界からできています。世界は陰と陽のバランスで成立しています。
陰の作用が大きくなれば、それに伴って陽の作用も大きくなると見ます。
 
 「人間が生きる」ということを別の長い文章で言い表そうとしたとき、「様々な経験から、未来を予測し、自分にとって都合がよい未来となるよう、自分自身や他者、環境に対して働きかけ、操作、コントロールすること」としました。
 太極・易の見方からすれば、自分にとって都合がよいと思われるものを引き寄せようとすればするほど、都合の悪いものも同時に肥大しているのです。生は必ず死とともにあります。
 目標を高くすれば、その困難も高くなります。
 
 山岸凉子著 「白眼子」潮出版社刊 の中で、主人公の白眼子はこう述べます。

「どうやら 人の幸・は不幸みな等しく同じ量らしいんだよ」
「災難をさけようさけようとしてはいけないんだ。災難は来る時には来るんだよ。その災難をどう受けとめるかが大事なんだ。必要以上に幸運を望めばすみに追いやられた小さな災難は大きな形でもどってくる。」
 
 こういった捉え方は、聖書のゲッセマネの庭の祈りに通じ、良寛さんの災難に逢う時は災難にあうがよろしという言葉に通じていると思うのです。
 
 生き延びることばかりに価値を置くポジティブシンキングは、やがて大きなネガティブとなって帰ってくるのだと思います。この世界をコントロールしようと、大きくなろう、強くなろう、豊かになろうとする者は、やがて自分の無力さを思い知らされるのだと思うのです。

 援助という名のもとに、セラピストがクライアントをコントロールすればするほど、セラピストも共に、コントロールされ、自分の力に取りつかれているように思います。

「最大多数の最大幸福」を求めて、世界をコントロールする、陰陽のバランスからいえば、これはありえない目標だったように私は思います。
 私を世界から分離したものとして捉え、その私の幸福、ポジティブな価値や救済、生存のみを望めば、その望みが互いに対立するのは明らかです。
 
 波が高ければ、その谷間もまた深くなります。山だけの波などありえません。そのことを自覚して、波に乗り漂うことを、私はハーネシングHarnessingといいます。