幽体離脱して我が身、わが地球を振り返る

 臨死体験報告の中で、いわゆる幽体離脱して、自分のからだを天井の側から見ていたという報告を、しばしば目にします。更に建物の上から下を眺めたという報告もあります。
 
 幽体離脱という現象が本当にあるのかないのか、誰もが一度は自分自身の臨死現場で確かめることができます。
 幽体離脱をしなくとも瞑想により同じような体験を持つことができます。いっそうのこと、更に高く舞い上がり、住んでた街を振り返り、郷土を振り返り、地球を振り返ってみるといいでしょう。
 

 「朝早く、まだ真夜中にイエスは起きて、人のいないところに出ていき、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35) 人のいない場所で、イエスは、ゴルゴタの丘の出来事も見えていたことでしょう。
 
 「今日は、2011年、4月19日、午前9時20分です。」という表現は、特別な価値も含まない、客観的な事実を述べている、と私達は思いがちです。
 
 幽体離脱や瞑想をして地球外に飛び出し、その文章を吟味してみると、それは、「客観的な事実をのべている」のではなく、「人間同士で仮に構築した出来事」を表現していることが分かります。
 
 地球のある場所に朝が来れば、その裏側には夜がやってきます。その地球を外から眺めると、朝と夜は別々のことではありません。
 地球のある場所が、2011年4月19日午前9時20分であるとして、東西に離れた別の地点では、午前6時であったり、午後3時であったりします。それを時差と言ったりします。でもその時差は、地球上で住んでいる人々が仮に構築した時間感覚です。

 時間と空間は結びついています。

 私たち現代人は、地球は丸いということを、知識で知っています。しかし多くの人にとっては、大地は水平であるという感覚で十分です。国際線の飛行機のパイロットは、離着陸する時は、大地が水平であるという感覚で行動するでしょう。目的地に方向を決める時に成って、地球が丸いことを前提にして操縦します。福島で放出された放射性物質が、東に流れ、ぐるっと一周してきた時、実感として私たちも地球は丸いと感じるのでしょうか。
 
 水平と思っている大地が、実は丸いように、一方向にのみ流れると思っている時間が、幽体離脱や瞑想で、常識を外す場所に行ってきたりすると、時間もまた空間とともに丸いと捉えることもできるということに成ります。
時空間が丸いと捉えるならば
「汝の王国に至るとき、我を思いおこせよ」
「今日、おまえは我とともに、わが王国に至る。」
アインシュタインロマン 6 エンデの文明砂漠より)
ということも起こりえるのだとおもいます。
 
つまるところ、私の命令はこれである、−お互いに愛せよ!
ヨハネ15.17)
 
時間を一方向にのみ流れると捉え、
自分の目標に向かって邁進しているときは
かえって、人に「寄り添う」ことが難しいように思います。