カオス 有り難し

 毛筆を手に持ち、何かを描こうとせず、ただ自由に手の動くままに、自動書記の要領で描いてみると、紙に何らかの軌跡が残ります。
 その軌跡を見ながら、同じ軌跡を描こうとしても、難しいです。
 では、自動書記の要領ではなく、何らかの字を意図して連続的に書く場合、全く同じ字が書けるかというと、これもまた難しいです。

 毛筆でなく、ボールペンで描くなら、より同じような字に見えるでしょうが、やはり全く同じ字を書くことは難しいと思います。
 同じ筆順の、同じ意味を表わす、同じような大きさの、同じような形の字であっても、全く一緒ではないでしょう。
 同じであって同じでない。

 「かわりばえのしない日常」という表現があったりしますが、昨日と今日は同じように見えても、全く一緒というわけではありません。
 
 一緒ではないのに、私達が、差異には注目せずに、変わらないと決めつけているのだと思います。
 
 違い・差異を見出そうとすれば、差異を見出せることができ、変わらないものを見出そうとすれば、変わらないものを見出すのだと思います。

 差異に注目・仮構すれば、私たちのこの住む世界は、一瞬一瞬が有難い世界となります。

 変わらないことに注目・仮構すれば、そこに永遠を見出すのかもしれません。
 
 差異に注目すれば、ナラティブとなり、変わらないことに注目すれば、エビデンスとなるともいえます。
 
 私は私の中のスイッチを入れ替えることで、日常の風景を楽しんだりします。
 
 例えば夜、家に帰る道筋で、いつもの道と知っていながら、この風景は、ここを初めて訪れる旅人にはどんな風に見えるだろうか、と思うと、途端に風景が変わり、まるで始めて旅をしたところのように見え始めます。信号の色も鮮やかになったりします。
 
 例えば接骨院で、ついつい口から愚痴が出てくる年配の人がいます。その人に触れながら、この人は小さき人、イエス・キリストが姿を変えている人、と思うと、触れている手の感じが変わり、相手もまた話の内容が変わってきたりするのです。
 
 牧者という言葉の味わいを、少し、ほんの少しだけど、感じ始めています。