脱家畜化

 柴田義松著 「ヴィゴツキー入門」子どもの未来社 寺子屋新書 2006 を読んでいて、ふと思いました。
 
 「最近の子供たちは、何歳ぐらいでりんごの革むきができるようになるんだろう」と。
 
 インターネットを調べてみると、小学五年生で夏休みの宿題として、リンゴの皮むきができるようにと課題を出された、という記事がありました。

また、若い夫婦で、「うちの夫は林檎の皮むきができない、他の家庭はどうだろう」というアンケートに対して、八十数名の男性の内、十数名できないという回答が寄せられていました。

 私にとって、小学5年生は意外でしたが、大人でもむけない人がいるのはもっと意外です。
 
 なぜリンゴの皮むきの事を思ったのかというと、ある行為ができるようになるということと言語との関わりを思ったからです。
 
 あること、例えば今回の林檎の皮むきなど、ある行為ができるようになるについて、「言語」「内言」がどのように関わっているのだろう、と気になったからです。
 
 「違いが分かる、違いを作りだせる、違いを生み出す違いが分かる」ということにおいて、確実に「わかった」と言える基準は、言語で表現できることではないかと思いました。
 
 体験から、外言を獲得し、外言が内言となり、次には、内言が、体験を導き出す、そのような循環ラインを思ったからです。

 それまでの蓄積をもとに、色々試行錯誤し、ある時課題を達成することができる、そして、そうか、アドバイスやマニュアルの云っていたことはこれか、と思い、でも、実際の体験は、少し加味したものだな、と自分なりのことばの文章にし、そこに気をつけて、更に試行錯誤する、
 
 例えば、初めて携帯電話を使い始めた時、携帯電話だけを渡されても、なかなか使いこなせない、かといって、マニュアルを先に渡されて読んでみても、なかなか要領を得ない。
 
 また、個人技が優れたサッカー選手、あるいはアメフト選手を集めてチームを作り、作戦なしで試合に臨んでも、その能力は十分に発揮されないように思います。もちろん、臨機応変の融通性も大事でしょうが。
 
 ところが、日常生活において、試行錯誤だけを与えられるものや、マニュアルを渡されるだけの事ってあるように思います。
 
 例えば英語教育。どうして、日本では学校でフォニックスや発音記号、あるいは触覚(得に舌の触覚)を育てる訓練を教えないのだろう、と思ったりします。
 
 例えば、脳梗塞後のリハビリ。関節可動域を広げたり、筋力アップも大切だろうけど、どうして、(触覚、位置覚などの)感覚訓練をあまりしないのだろうと思います。
 
 例えば跳び箱。「誰でも、跳び箱を飛ぶことができるようになる。」という指導書と実践があるのに、どうして採用しないのだろうと思います。

 確かに、試行錯誤だけでも、子供はそのうちリンゴの皮むきができるようになるのかもしれません。しかし、適切な時に、適切なアドバイスがあれば、もっとスムーズにできるでしょう。

 便利な世の中になりつつ、私達はどんどん家畜化しているように思います。
 
 今からすぐにどこででも、脱家畜化として取り組めること、ひとつにそれは呼吸を見つめることでしょう。