数学と人生

知人から、「子どもの数学の成績が落ちてきているので、見てもらえないか」と依頼を受けました。「すぐに成績がアップするということにはつながらないかもしれないけれど、数学に興味を持ったり、好きになったりする特別講座ならできると思う」と返事しました。
 
というのは、先日この親子に、英語の特別授業フォニックスをしました。すると子供さんがすすんで勉強をするようになり、知人の英語のリスニングも進んだそうで、私の講義が分かりやすかったということで、数学も、ということになったそうです。

 さて、数学の特別授業、先ず「数学は言語である」ということを、依頼を受けた時言いました。
 
 私としてのキーワードは、公理系、論理、証明、定義、秩序、真理、創造神、言語、インタラクション、不確定性原理、階層性、などですが、子どもさんに伝わるように語らねばなりません。
 
 ドップラー効果フィボナッチ数列ケプラーの法則、惑星、ゲド戦記、魔術、線形と非線形、カオスetc
 
 で、結局、今回の特別授業は、私が、「生きるということをどう捉えているのか、この世界から何を学びとろうとしているか、世界や隣人とどのような関係を結ぼうとしているのか」ということが、問われているのでしょう。
 
 生きているこの世界がどのようなところなのか
 一人一人が、実際に生きて、判断し、そこから自分なりの態度を決めること

 態度を決めるにあたって
 体験し、感じ取るには、からだや感覚器官が大事、抽象的な思考には、言語が大事、
    
 その言語のひとつとしての数学・算数
    
 例えば「定義」
 今回のような大地震があったりして、大勢の人が突然亡くなると、「神は存在するのか?」と問う人がいたりします。その時に、その人が言う「神」という言葉の内容・定義はどのようなんだろう?
 そこで言われる「神」は、「その人にとっての神」であり、「神」という言葉は同じであっても、そのことばの指し示す内容は、そのことばを使う人で皆同じとはいえない。「あなたにとっての神とはどのような存在ですか? そして、それをあなたなどのようにして知ったのですか? 両親から?先生から?牧師や神官から?友達から?百科事典から?」
   
 例えば「論理」「証明」
 理不尽な目にあうと、生きるのが嫌になったりします。間違ったことをしていないのに、間違っていると決めつけられることがあったりします。冤罪といわれることがそう。もし、自分の無実を証明できるのなら、その最大限の努力はするでしょう。
       
 ある小学校のあるクラスで、学級の菜園でキュウリを育てました。そろそろ収穫の時期です。クラスのみんなは菜園に出かけました。すると菜園の方から、ごん太君が、キュウリを抱えて歩いてきました。ごん太君はいつもいたずらをして皆を困らせたりします。菜園へ行ってみると、キュウリが一本も見当たりません。みんなは、ごん太君がとったのだと思いました。そして追いかけました。そしていいました。「そのキュウリ返してよ。」
 さて、この判断は、正しいといえるでしょうか?
 
 A よくごん太君はいたずらをする。→すべてのいたずらはごん太君が起こす。
b 今いたずらが起こった
 c ゆえに、このいたずらもごん太君がした。
 
 例えば「観察の理論負荷性
 これを数学の領域に入れない人もいるでしょうけど、公理系とか、ナラティブにつながることだと思っています。