気づかないうちに、肩に力が入っています

一体何歳頃までだろう?

ある歳まで、ゆるぎない客観、ゆるぎない真理というものがまずあって、その客観・真理に対して、不完全、部分的な、あるいは歪んだ主観があると思っていた。

 歪みを矯正し、部分を総合させていけば、より客観、真理に近づいていくもの、進化していくものと思っていた。
 
 確かにそういう見方はありえるだろう。
 しかし、「これがゆるぎない真理である」と、私達はどうやって判断できるのだろう。
 
 「仮説を立て予測し、実験し、予測と一致すれば、それは真理である」とは単純に言えない。
一体何回実験すればいいのだろう、一致した、一致していないという判断は、誰がするのだろう。

とはいえ、
それが真理だという証明がなくとも、人は様々な通説に縛られている。

 「見えない赤い糸で結ばれている、この世界で唯一の存在である魂の触れ合う相手を探し出し、愛をはぐくんでいくのが幸せだ」というような通説は、いつもあふれている。
 
 原発事故が起きる前、多くの人は、「原子力発電所二酸化炭素を産出しないので、温暖化防止になる」とか「単価が一番安い」「原発が止まると、必要な電気をまかなえない」と信じていた。
 
 「時間というものは、一方向に均一に流れる」というのも、真理ではなくて、ひとつの「通説」であると思う。
 
 「人生というものは、最終的には、個人の意志で切り開いていくものだ」というのも通説だろう。個人の意志を全面的に信じるよりも、その限界を知り、受け入れたほうが、逆に楽になれるように思う。
 
 これについてはいつも、「ニーバーの祈り」に思い至る。
 
 変えられることについては、変える勇気を
 変えられないことについては、受け入れるこころの静けさを
 そして、変えられることと、変えられないことを見分ける智慧
 与えてください。

私達人間が、その一生の中で発揮できる能力というのは、遺伝だけ、あるいは環境だけ、あるいは意志や努力だけで決まる訳ではないと思います。

そのことはさておき、あらゆる分野において、私自身が努力することによってある能力が上達するというとき、共通したことがらがあるように思います。

それは、第一に「違いが分かる」ということ、第二に「違いを作りだせる」ということ、第三に、違いを作りだすためには、「違いを生み出しているメタ違いが分かる」ということ。

違いが分かる、違いを生み出す、違いを生み出しているメタ違いが分かるという過程には「広義の言語活動」がともなうということ。

違いが分かる為には、基礎条件として感覚器官が必要だけど、情報を得るためには静止していてはだめだということ。例えば、じっと同じところを見つめていても、ものが見えるためには、目は微細動しているように。ものに手を触れて差異を感じている時も、やはり、外目からは、掌が同じところにいるように見えても、実は微細な圧がかかっているように。

英語の発音のRとLを聞き分けるには、自身がRLの発語を使い分けてできると聞き分けられるように、そして、使い分けできるために、違いを作っている違い、舌の動きが分かること。

マッサージにおいては、かたいところと柔らかいところの違いが分かること。同じかたくてもそれが骨なのか凝った筋肉なのか違いが分かること。同じからだの中で、凝ったところと凝っていないところが生まれる違いを生み出しているもの、例えば動きとか睡眠時間、内臓との関係がみえること。活性化させる動きと鎮静化させる動きをつくりだせること。

 そしてやっぱり、相手自身や私の努力を超えて、全体の流れの中で、私や相手が変わっていきます。