予定に縛られず道草しよう

京都在住のシンガーソングライター、豊田勇造さん(61歳)が今年3月に発表した新曲を紹介します。作詞は、ダライ・ラマ14世となっていますが、そのまた元詩は、アメリカの牧師さんのようです。
      
The Paradox of Our Age
     
大きな家に住んでいる 小さな家族で
便利になって 忙しくなった
大学は出ていても 感性はにぶく
知識はあるのに 判断できず
専門家が増えて 問題も増え
沢山の薬で 健康をそこなう
      
はるか月まで行って 帰って来たというのに
引っ越してきた向かいの人と うまくいかない
沢山の情報を得るために コンピューターを増やし
コピーを作り配る でもつながりは弱い
欲しかったものは 持てるようになった
だがそれらはすべて ガラクタばかり
The Paradox of Our Age (×3)
    
時代はファースト・フードのよう でもうまく消化できず
背丈は高いのに 中身はつまらない
利益はためこまれ 関係はうわべだけ
窓から覗けば沢山の物
でも部屋の中実は空っぽ 私達の時代
    
大きな家に住んでいる 小さな家族で
便利になって 忙しくなった
The Paradox of Our Age (×3)
(2011・3・26)
      
      
私が小学生の頃、「テレビ」は社交の場をつくりました。駅前にある和田商店に、近所に住む子供たちが集まり、一緒に怪傑ハリマオを観て、主題歌を歌いながら、各自家路につきました。
テレビが各家庭に普及するようになると、「テレビは家族間の会話を奪う」と批判する人がいました。ところが、今では、同じ部屋で同じ番組を観るのではなく、各自が各自の部屋で、別々のテレビやパソコンを観る時代となりました。
     
The Paradox of Our Age の歌詞にあるように、
<大きな家に住んでいる 小さな家族で 便利になって 忙しくなった>
        
 バリ島やベトナムの郊外、中国の田舎に出かけると、私が幼かった頃の日本の雰囲気を思い出します。洗濯機が家に入る前、母の手にひかれて、家から離れた川へ濯ぎに行ったものです。それでも十分暮らしていけました。
        
 「便利になって 忙しくなった 心もあくせくしている、どうしてこんなことになったのだろう、どうすればいいのだろう」としばしば思います。
     
 最近、心理学領域に関しては、「語用論」という言葉をキーワードにして、学んでいます。
     
 私は、心理学とは、行動の学だと思っています。
 「ある行動が、苦しみを生み出しているのに、その行動をやめようとしない。どうしてなんだろう? 人はなぜそのように行動するのか?」
 そういった疑問に答えるのが、心理学だと思っています。
     
「人は意味に生きる。そして、その意味形成に深く関わっているのが<言語>である。人間行動と言語の関係を扱うのが語用論(プラグマティックス)」と、現代のエスプリ454号に書いています。
      
 普通私達は、「言語」「コミュニケーション」と云えば、情報を伝えるものと捉えがちです。確かに情報を伝えます。あるいは意味を作りだします。と同時に、影響、命令、操作などをもたらしています。
      
 「おはようございます。いい天気ですね。」と声を掛けられて、ほとんどの人は、「おはようございます」と挨拶を返すでしょう。「いえ、今の時間なら、早くないですよ、それに空の50%以上に雲が出ています。ですからいい天気とは言えません。」とか「愛は感情でしょうか、それとも態度なのでしょうか」とか、「諸行無常、人生ははかないですね。一日一生。」とも言わないでしょう。
 言語・コミュニケーションは、情報を伝える、意味を作りだすだけでなく、次の行動の範囲・選択肢を制限しています。それを「言語による行動の拘束」と表現します。
     
 「言語による行動の拘束」が理解されると、今度は、単に音声言語や文字言語やジェスチャーやアクション、表情、口調だけでなく、私達の行動を拘束するものごとの存在が見えてきます。例えば、建築物や間取りです。教会の中に入れば、信仰者でなくとも厳かな感じがし、行動がつつましやかになったり、病院の待合室で、久しぶりの友人に出会っても、歓談にはなかなかならないでしょう。例えば、服装や化粧も、相手に影響を与えます。
 このように、行動の拘束をもたらすものを、逆に「広義の言語」と表現し、言語という言葉の意味が拡張されます。
 「便利になって、忙しくなった。」例えば、かつてお金を借りるとなれば、余裕のある人に頭を下げて借りたと思います。いまでは、無人のATMから借りることができます。
 
 私が幼い頃、近くのよろず屋には、現金払いだけでなく、「通い帳」という仕組みがありました。普段は現金でなく、掛け買いし、月末にまとめて払う、月末に支払いきれない人は、盆と正月に一括して払う、という仕組みでした。利子はつきませんでした。思っていた額が徴収できなくとも、情状酌量があり、融通性がありました。しかし、便利になったコンピニエンスでは、掛売りはできませんし、銀行ローンの返済や金利情状酌量はありません。
      
 また、個人的に借金がないとしても、あなたの住んでいる街の自治体や企業は、お金を借りていて、情とは関係なく利子が増えています。そして、利子を、税金や料金から返しています。これが、社会全体のリズムを作ったりします。
      
 確かに、便利になったけど、忙しく、関係はうわべだけ?
       
 では、どうすればいいのでしょう。
        
 今回の新曲には、どうすればいい、どうしようというメッセージはありません。拘束が少ないと表現すべきでしょうか?
      
 日本の交通網は、時間が正確だといわれています。それも便利なことのひとつです。
 時間通りにバスや電車が来ないと、イライラしたりします。 
 つまり、自分の予定通りにならないと、イライラするということでしょう。
        
 行動を拘束する制度や文化・生活様式を変えていくというのは、なかなか難しいことです。通貨(金融制度)は一日にして成らず。そんな中で、具体的にできること、始めることができること、それは、正邪の問題ではなく、自分自身の予定表を書き換えること、予定に縛られないようにすること、融通性を持たせることではないでしょうか?
            
 例えば、小さな事ならば、通過できると思っていた交差点が、前の車が遅くて、赤になったとしてもいらいらしない。晴れと思っていて雨が降っても、雨を楽しむこと。
子供が、自分の思う予定通りに育たなくとも、行動しなくとも、長い目で見ること。思いがけない病気になったとしても、受け入れること。
       
 借りずに済むのなら、情状酌量の無い銀行からはお金を借りないこと。友人にお金を貸すなら、返って来ないことを前提に貸すこと。
        
  正しいことや、理想に向かう行いであっても、「予定」に縛られると、苦しいです。
 道草生活を楽しみましょう。