「苦しみ」の「生」と「滅」

「信」「正義」に続いて、「苦しみ」について考えてみようと思います。
 
どのような苦しみであれ、「苦しみ」は
<外なる対象・色>と<内なる意識・受・識>が接触することで生まれるでしょう。
 
外に苦しみとなる対象があり、それを苦しみと捉える意識が接触し、苦が生まれます。(縁起)
 
ところが、
外に苦しみとなる対象があるわけではないのに、<これは苦しみであると捉える意識>があっても、苦しみは生まれ、
外に苦しみとなる対象があるのに、それを苦しみであると捉える意識がない時、苦しみは生まれません。
 
これは瞑想体験、心理学でいう認識過程のことをいっています。
瞑想の体験のない人は、苦しい時、私を苦しめるものごとが確かにそこにあると捉えます。
瞑想の体験のある人は、苦しい時、そこにこれは苦しみであると捉える意識がある、と捉えます。
 
苦しみの杯を私に差しださないでください、と言っている時、そこにはこれは苦しみであると捉える意識があります。 「み心がなされますように。」「霊をあなたに委ねます。」と述べている時、その意識は消えています。