生きるためのスキル「弁別」と「般化」 

今日は朝から、「弁別」と「般化」という言葉を通して、遊行しています。
 
ここ数日、「信」「正義」「苦しみの生滅」と考えてきて、昨夜、夜中に降りてきた言葉が「弁別と般化」でした。

インターネット上の辞書には、
弁別
弁別とは、学習実験に用いられる用語で、類似した刺激の中から、ある特定の刺激だけに反応するようになることで、分化とも言われる。等質な全体が個々の特性を持った部分に細分化されること。弁別を確認する為には、般化の範囲を確定することが必要であり、両者が相補的に働いていると言えるものである。

 と書いています。
 
 生きるということの一面を、仮に、「自分が生きていくのに都合がよいように、環境や自分自身に働きかけること」と前提すると、その働き掛け方には個人差があり、また稚拙があり、効果的であったりなかったりします。
 
 その違いは何によって生じ、より効果的な行動を身につけるにはどうすればいいかと考えた時、出てきた言葉が、「弁別と般化能力の違い」「弁別と般化能力をつける」ということでした。(何を持って効果的とするかは棚上げしておきます。自分の目標達成に近づく為の程度とでも仮にして置きましょう)
 
 どうも私が使っている「弁別と般化」と辞書にある「弁別と般化」は、一致していないように思います。
 
 更にインターネットを調べていると、「インストラクショナルデザイン」なる言葉に出会いました。
 
 「知的技能」というのは、階層構造をなしていて、その階層構造の下位にあるスキルとして「弁別」がある、と私も思っています。
 
インストラクショナルデザインについても、簡単に書いておくことにします。
 
インストラクショナルデザイン(英: instructional design、あるいはインストラクショナルシステムデザイン)は、教育の場などにおいて、学習者の自由度を保ったままで高い学習効果が生じることを意図して、具体的な計画を立てることである。

インストラクショナルデザインの基盤は、「学習理論(心理学)」「コミュニケーション学」「情報学」「メディア技術」であり、それらを統合した「インストラクショナルデザインの理論・モデル」である。

インストラクショナルデザインは、「人はいかに学ぶか」「学習とは何か」という問に対峙し、より良い学習の環境を総合的にデザインすることを目指している。
 

「弁別」と「般化」と並べてしまうと、弁別と般化は、方向が逆の別々の言葉のように思えてしまいますが、弁別ってどのようになされているだろうと観察した時、弁別するには般化が必要で、般化するには弁別が必要で、といった、紙の表裏の関係のような、あるいは、階層構造的に、般化の中に弁別があり、その弁別の中をみると般化があり、その般化の中をみると弁別があり、といったフラクタルな構造をしているように思っています。上手く言葉で表せません。
 
目の前に何らかの色々な現象があって、違いを見出せば弁別、共通性を見出してひとくくりにすれば般化、現象そのものは変わっていない(だろう)、ということをうまく言い表せません。
 
 更に、違いを見出す基準・拠り所、共通性を見出す基準・拠り所は、唯一ではないということ。
 
 (だから、データをもとに、ある学者は、放射能を浴びても安全といい、ある医師は、チェルノブイリで自分が体験したことを述べます。)
 
 今日は思いや考えが整理できません。
 
 そんな中で次のHPに行きあたりました。


自然と人間を行動分析学で科学する
島宗 理@法政大学文学部心理学科
2003/11/26
円周率と分数のわり算 (から一部抜粋)

< ものすごく大雑把は話になるが、日本の社会は加速度的に既存のルールが適用できない状況になってきていると思う。変化の加速度はこれからさらに増すだろう。年功序列、終身雇用、右肩上がりの経済成長、日米安保条約..... 近代日本がより所にしていた前提が、今やどんどん崩れてしまっているのは承知の通りである。
 そうなると、ルールに従っているだけの行動は機能しないし、非効率である。よって、いずれ淘汰される。このような変化の多い環境で機能するのは、自ら随伴性を探索し、弁別刺激を探していく問題解決的行動だと思う。そして問題解決的行動をうまく誘導してくれる仕組みが科学や倫理にはある。>

 何をもって科学といい、倫理というか、ゆっくり考えてみる必要があるように思います。 
 
 弁別をより緻密に柔軟にするには、瞑想や祈りが大切と思っています。