スピリチュアルな・神秘的な「努力」「忍耐」 忍辱

「弁別と般化」に思いを寄せていた時に降りてきた言葉が、「努力」です。
「努力」について考えてみます。
「努力」という言葉は日常よく使われていても、やはり個人によって、意味内容の捉え方が違います。

Wikipediaには、

努力(どりょく)とは、好ましい状態を実現するため、全力を傾けることを指す。
ある所定の目標を掲げ、そこに到達する事を欲して、邁進することである。これは自発的なプロセスによるものだが、自ら目標を選択できるほどの余裕がない場合もあるし、往々にして目標が外部から与えられる事もある。このため「努力すること」も外部から与えられた義務であるかのように考える人もいる。しかしその与えられた目標も、「努力(全力を賭す)する」のか、「ちょっと手を抜く」のか、「だいぶ手を抜く」のかは当人の自主裁量の範疇である。

一方、アンサイクロペディアには、

努力(どりょく)とは、サクセスストーリーなどで語られる『夢をかなえるために積み重ねる行動』という名の幻想である。たとえ周囲の迷惑も法律違反も、ただ運がよかっただけでも関係ない。成功さえしてしまえば認められる。逆に言えば、努力して失敗したり、努力の成果を挙げられなかった場合、周囲に認められることは決してない。また、人間が努力してもどうにもならないことなどたくさんある。例えば君はどれだけがんばっても、イギリスの王様になることはできない。血を吐くような努力をしても、一流企業のサラリーマンがやっとだろう。結局のところ努力というものは幻想であり、生まれついての才能や周囲の環境がすべてなのだ。

「努力」という言葉は、多くの人々にとっては、時間律と因果律が前提となっています。

「いまの努力は、やがて報われる」「今の成功は、過去の努力のおかげ」
 
それに対する反論は、努力への反論というより、因果律への反論であったりします。
「努力しても、報われないことはいっぱいある。」

 また、それに対する反論
「努力した者が全て報われるとは限らん。 しかし、成功した者は皆すべからく努力しておる!」 出典 はじめの一歩 著者 森川 ジョージ

「ボクシングにラッキーパンチはない!! 結果的に偶然当たったパンチにせよ、それは練習で何百何千と振った拳だ。 その拳は生きているのだ.」
出典 はじめの一歩 著者 森川ジョージ
 
「努力が報われるとは限らない」ということは実際多々あると思います。 これは、因果律が間違っているのではなく、因果律=一因一果という捉え方が狭すぎるのだと思います。 ある時、因と果の関係は、多因一果だったりします。だから、因果とは言わず、因縁果と言ったり、縁起と言ったりします。

 だから、「努力すれば必ず報われる」という表現も、因縁果からみると、不十分な表現となります。
 
 時間律を超える時、因果律も超えたりします。
 それは、行動分析学の表現を借りると、
 「行為そのものが好子である時、行為そのものが即喜びとなる。」
と、少し味が薄い言葉になってしまうのは、科学的な表現ですから仕方ありません。

スピリチュアル、神秘的な努力だと
「いつか報われるから努力するのではなく、それが人の道、誠の道だから、行為する」
「いつか報われようが、あるいは報われなかろうが我関せず、今ここ既に報われている」
と述べるでしょう。
 
 薪は、燃える時だけでなく、作る時にもからだを温めてくれます。
 燃える時、誰を温めるかは、作る人にはわかりません。
 
 この世にいつかパラダイスが実現されるか可能性があるかどうか、ではなく、たとえ刃の下であっても、自ら踏み込めば、そこは極楽。
 
見直すべきは、努力ではなく、時間感覚や、要素論、素朴実在論でしょう。
 
「縁起」に関しては、
チベットの般若心経 春秋社に
< 縁起には、三層の意味がある。縁起の最も一般的な意味は、「因と縁に依存して成立すること」だ。二番目の意味は、「部分に依存して成立すること」だ。そして三番目の意味は、「分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説)されたものとして成立すること」だ。 >(48頁そのほか)
とあります。
 
 では、人の道、誠の道とはどこにあるでしょう?
 私と実際に生きている目の前の人、隣人との間にあると思っています。
 (瞑想や黙想、祈りに基づく智慧の目があればさらに見えてくると思っています)