みるということの複雑性

k1s2013-03-08

「みる」という単語は、別段難しい意味を含んだ単語ではなく、一日の内でも、頻繁に使われる単語だと思います。そして、実際に「みる」ことなしに、私達の暮らしは成り立ちません。
 
漢字で表現すると、観る、見る、診る、看る、視るなどもよく使われます。
 
広辞苑では、
<目にとめて知る、眺める、あう、よく注意して観察する、物事を判断する、読む、評価する、診断する、取り扱う、指導する、調査する、身に受ける、経験する、試みる>などと書かれています。
 
永沢まこと氏の「絵を描きたいあなたへ」の中に、初心者のための方法論として、
<何を描くときでも「実物」を見て描くこと>とあります。
 
私は、石絵を描き始めてから、この文章を読んだとき、「みる」には、大きく二つあると思いました。
 
ひとつは、「それはなんであるか」とみることと、もうひとつは「それがどうなっているか」とみること。
 
「それがどうなっているか」ということと「それはなんであるか」ということは、時系列的であり、並列的であり、階層的な関係になっていると思います。
 
私達は、多くは「それが何であるか」と判断するために見ることが多いと思います。そのためには、先ず「それがどうなっているか」を見て、そこから「それがなにか」と判断する、その関係は時系列的であり、それがなんであるかと判断したら、大抵はもうそれ以上は「それはどうなっているか」という見方をしなかったりします。(判断は早いけど、表面的、思い込み的、左脳的な見方になりがち)
 
その過程を、更に詳しく「観て」みると、「<それ>がなにであるか?」と思うには、<それ>と<それ以外>を区別し、般化し、弁別している過程があると思います。(ここではだから、並列的で階層的)
 
限りなく、どうなっているのだろう、どうなっているのだろうと弁別していくと、判断(般化)できません。
どこかで、弁別(どうなっているのだろうと見極めること)を止める訳です。
 
母親の顔を認識できない自閉症傾向の子どもとか、文字が読めないデスクラシアの人たちは、より細かな、より下階層的な弁別を止められないからだ、と言われたりします。
 
「みる」という簡単な言葉ひとつとっても、奥深い(複雑系創発)ですね。