心理学と正義 解読と解釈

「信」だけでなく、「正義」も、きっちりと自分の中で整理しておきたい言葉です。
 
 というのは、怒りや暴力、力による他者の強制操作を行使する人がいて、その人は「正義」に基づいてその行為を行っていて、それは当然のこと、あるいは、むしろ積極的にせねばならないことと思っていたりするからです。
 
 そのことに違和感を覚えつつ、その行為者と対話する為には、「正義」について、自分自身がどう捉えているか、をきっちり整理し、明らかにしておく必要があると思い続けてきました。
 
 私が感じている違和感というのは、この世の中に、絶対的な正しさというものがあるのかどうか、ということ、正しさに基づいていれば、怒りや、強制的な力による操作はふさわしいと言えるのか、というおもいです。
 
 「目には目を」という言葉がある一方で、「恨みに恨みを以ってすれば、恨みは尽きることがない」という言葉や「左の頬をうたれれば、右の頬も差しだしなさい」という言葉もあります。
 
 ある時期、日本では武士階級では「仇討」は強制でした。しかし、明治になってそれは禁止されます。
 
 正確な情報かどうかはともかく、ある立場の人がある情報を持っていて、それをすべて公表すべき時もあれば、公表すべきない時もあるでしょう。
 日本でも、ある職業の人々には、守秘義務が課せられています。(守られているかどうかは別ですが。)
 好きであっても、好きと言えない心情・ふるまいは、多くの小説で語られてきました。
 
「最大多数の最大幸福」は果たして、ふさわしい行動基準なのか、わかりません。
 
「少数」と「多数」あるいは、「個人」と「社会全体」といった比較のし方そのものに疑問を感じています。

また、いついかなる時も「延命」が選ばれるべきなのかもわかりません。
 
きまりきった答えがあるのではなく、それらには「縁起性」と「現証性」による仮構的な、複雑系的、カオス的な選択があるように思っています。 (旧時代の言葉を使えば、臨機応変。宇宙の謎は解読されるのではなく、解釈されるのみ。)
 
解読したのではなく、解釈しただけなのに、解読したと思いこみ、主張し、行動することによって、更に対立を生み、苦しみを生んでいるように思います。
 
「人は、ものごとを見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように語る。」と思っています。 私たちには、絶対の正義を知ること、生きることがあるわけでなく、解釈した正義を生きているように思います。 私が、心理学を学ぶ目的の一つは、そのことを自覚しつづけることにあります。