何をもって信というか 私にとっての信

「信」という言葉がずうっと気になっていました。
 
国語辞典には、
1 うそのないこと。まこと。誠実。2 疑わないこと。信用。信頼。 3 帰依すること。信仰。信心。
とあります。
 
一般的には、「これといった根拠がなくても、正しいと思うこと」という意味でつかわれたりします。
 
「信」の体験がない人は、自分の「信」という言葉の辞典的言語解釈でもって、他者の「信」を捉え、量りがちなのではなかろうか、と「信」という言葉が気になっていました。
 
 私にとって「信」とは、「現に証せらるる体験」のことです。
 「他者が何と言おうと、世間が何と言おうと、現に救われたという体験」のことです。
 
 例えば、
 「私というものが実体として存在しているわけではないのだ。一切は縁起によって生じている。私も、私のいまここの苦しみもまた縁起だ。対象と名称を結び付けることによって、苦しみを生んでいた。しかし、現にいま結びつきを切ることで、苦しみが消えた。」
 「イエス・キリストでさえ、ゲッセマネの丘で、杯をさしださないでください、といったんは願った。そして、すぐに、神の御心のままにと願った。私もそのイエスキリストにならった、この目の前の苦しみの杯は飲みたくないと思ったが、飲んだ、するとどうだろう、思っていたような苦しみの杯ではなくなった。」といった体験です。
 
 そう思うと、親鸞さんのことが思われます。

< 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。>

大谷大学/大谷大学短期大学部のHPに次のようなページがありました。

Home > 読むページ > きょうのことば > 仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。


< 「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。」
大智度論(だいちどろん)』(『大正大蔵経』第25巻 p.63)
 この言葉は、大乗仏教の大成者であるインドの龍樹( りゅうじゅ) が、『大智度論』の中で述べている言葉です。

仏法という大いなる海は、「信」が無くては入ることができず、「智慧」が無くては渡ることができない

龍樹は、いくら知識を積み重ねようとも、「信が無くてはならない」と言います。「信」とは、訳も分からないままに闇雲に信じることではありません。仏教は、そのような凝り固まった先入観を持つことを、むしろ厳しく戒めています。

龍樹が言う「信」とは、自分自身も忘れてしまっているそのような先入観の殻が打ち破られ、「あぁ、確かにその通りだ」と事実をあるがままに受け容れられることです。この柔軟な心があって初めて仏法に耳を傾けることができるようになります。こういった先入観の殻が取り払われた率直な態度から「智慧」への歩みが始まるのです。>

 気をつけていないと
 この人こそ、と思っていた人が、晩年に変節してしまうことも、多々あること。
 人を信じることが、それこそ自分自身も忘れてしまう先入観になってしまったりします。
 そこにも、隠された意味があるのかもしれません。
 
 私たち一人一人は、親鸞さんが言うように、「地獄は一定すみかぞかし」の小さきものであると同時に、自分の人生の責任者でもあります。