複雑系全体論 共同体感覚

k1s2011-05-14

柿の葉茶をつくってみました
 
 インターネットで見てみると、柿の葉の新芽を摘んで、そのまま干せばいいと書いてあったHPもあったのですが、蒸してから干すという方法を採用しました。
 早起きして、庭の柿の木の新芽をとって、仕事場へ行って、蒸して、色が変わったところですぐに鍋から出して、干しました。揉みません。
 昨日は日差しが強かったので、昼にはからからに乾きました。
 早速飲んでみました。 少し酸っぱい感じがします。 
 二回目は今まで飲んでいたお茶にブレンドして飲みました。


複雑系全体論 共同体感覚
 
 線形の全体論集合論)では、部分から還元された部分の全集合が全体といわれていたのが、複雑系全体論では、全体は部分の集合以上のものといわれるようになりました。また、要素のあり方が全体の有様に影響を与え、同時に、全体のあり方が要素の有様に影響を与える、ともいわれます。
 これは抽象的な表現です。具体的な場所では、より大きな全体の為には、小さな部分・要素は犠牲になっても仕方がない、ということで色んなことが進められて行くように思います。
 「最大多数の最大幸福」という考え方がそうです。「高い理想の実現の為には、今目の前にある小さなことは我慢すべきだ。」ということになったりします。「国家あっての個人である。」ということにもなります。 「国全体の経済発展の為には、地方の過疎地の住民は放射能を浴びても仕方がない」というのもそうでしょう。
 
 複雑系全体論においては、「部分と全体とどっちが大事?」という質問はそもそもありえないと思っています。「部分は即全体であり、全体は即部分である」からです。部分とか全体とかの境界は、世界の側にあるのではなく、分ける人間の側にある(要素論+認知論)と思うからです。
 
 「今ここで、南無阿弥陀仏と言えないものが、臨終の時言えるだろうか?」と一遍上人は言いました。今ここが即臨終のときであり、その臨終の時の全集合が人生だと思います。
 
 ある人が羊を百匹もっていて、その一匹が道に迷った時、その人は九十九匹を山に残しておいて、迷っている一匹を探しに行かないだろうか。(マタイ18章12)
 
 高い目標や大義があるにせよ、その目標や大義の為に、今を犠牲にし、手段としてしまうことを「疎外」「苦」といったのではなかろうか。理想に比べて現実をさげすむことを「劣等感」といったのではなかろうか。

 「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)