虹と縁起と全体論(システム論)

筆者の営む接骨院は、小学校の通学路に面している。時々、小学生たちが、遊びに立ち寄ったりする。十数年の彼らの会話から類推したことだが、サンタクロースの存在を信じて疑わない年齢の境目が、小学校4年生くらいである。
   
 同じように、空に架かる虹について、「実際に空にある」と低学年の子供達は思っているようだ。
 筆者も、小学校低学年の頃は、虹の根元には宝が埋まっていると信じていた。
 
 虹の成り立ちについては、中学校1年生の教科書に出てくる。そして、彼らは、虹が「現象」であることを知る。
 
 虹は、実在するものではなく、地形や光や水蒸気や私自身の立つ位置という条件がそろって現れる現象である。大人にとっては、それは常識であろう。
 
 では、台風ならばどうであろう。台風もまた、現象であって、「もの」として実在するわけではない。しかし、名前をつけられ、「ジェーン台風が日本に接近しています。」という風に、名前が主語として使われていると、まるで、実体としての台風が、日本に近づいたり、通過して行ったりして云ったような印象を持ってしまう。
 
 更に同じく、「山田太郎」あるいは「山田太郎の心・性格・魂」といったものも、実体として存在するのではなく、ある条件の下での「現象」であるのに、あたかもそこに実体として存在するかのように、思ってしまいがちである。
 
「心・私の行動群」に視点を転じてみよう
私のたった今ここでの行動は、今ここの現象である。
たった今ここでの行動を成り立たせている条件を考えてみよう。
肉体(仏教では色)なくしては、ありえない。
その肉体をあらしめているのは、父母であり、水や空気、食べ物を供給する自然環境である。人は一人では生きられないから、他者や他者集団(社会)と様々な道具類の存在は不可欠である。それらは、たった今現在の地理的、環境的条件である。
 時間的な条件というものもある。私たちの行動は、何らかの目的をもったものである。
かつて、何らかの目的をもって行った行動が原因となって、今ここでの行動がある。たった今ここでの行動というものを、過去と切り離すことはできないし、未来と切り離すこともできない。
 
たった今ことの時、もし苦しみを感じているとしたら、それは様々な条件によって生まれてくる「現象」である。
 つまり、「縁起」によって生じているものである。
 
 苦しみというものが「実体」として存在するのではない。
 
 だがしかし、小学校低学年の子供が、サンタクロースの実在を信じるように、しばしば、私達は、「苦しみ」を実体視してしまったりする。