諸行無常だからことばがうまれた。

わたくし、熊野に生まれ、育ち、67歳数か月。(2021年冬。)

この先、何年生きるやら、生かして頂けるやら。それで、昨年12月、熟年離婚

本音人生。旅立つその日まで、ピアノ、ウクレレの音楽活動、詩学、止観瞑想の実践、言語学などの「学問」で、生きる意味を問い続け、創り続けていこうと思っています。

 

〇 今この時、実際に起きているのは、「息をしている。」ということ。

 その、吸っている「空気」は、私が作ったものではない。水も、食べ物も、光も、大地も。

 「私」は、「私だけ」では、存在しえない。活かされて生きている。ウイルスと共に。

 私の知らない、みえない世界全体あっての私。縁起。 sabbe-saṃkhārā-aniccā

呼吸という使うことばは、同じでも、一回一回の呼吸は、それぞれ内容が違う。諸行無常

 

〇 一方、ものごとを知り、考え、整理するとき、必ず「ことば(記号)」を使っている。

 その「ことば・母語」も、私が作ったものではない。(ことばと生きる人間自体が不思議。)

 そして、「ことばの選び方」によって、考え方、行動、時間感覚、生きる意味が、違ってくる。(主語+述語でない言語、過去・現在・未来という時制ではない言語を学ぶことも必要。)

 

〇 仏教でいう「苦」とは、「自分の思い通りにならない。」ということ。

 自分のからだ、自分の意識ですら、自分の思い通りにならないので、「生老病死一切皆苦」。

 そもそも「私」は、無数の縁が集まって現象・変化している「仮想・仮構」。

 雨・風に似ている。

 ただ、生まれた時から、同じ名前で呼ばれ続け、仮構・現象であることを忘れてしまっている。

 私は、私自身の自由意思だけで、作りあげたものではない。だからこそ、夢みよう。

 

〇 うかうか暮らしていると、環境からの刺激に、条件反射するだけの習慣的人生になりがち。

 だから、日々、一瞬一瞬、柔軟に、かつゆったり止観瞑想し、意味を仮設していくことが大切。

 

〇 からだを動かすことで、生まれた変化は、全て「ことば・記号」。

 (と、その「解釈」。)

 声、歌、文字、しぐさ、姿勢、表情、舞踏、音楽、絵画、接触、造形、調理・・・。

 私の生きている世界は、「ことば・記号」と「解釈」で出来ている。不安も後悔も、ことば。

味わい深い世界にするには、味わいある「ことば・からだ」で、世界を味わうこと。

「所属感」も、生活の中で使う <<ことばの体系>> から生まれる。

「恋愛」も、ことば・生命のからみあい・<<創発>>。

 響きあい、一生かけた創作舞踏。

 

〇 <時間感覚>も、「からだ・呼吸・飲食・心拍・歩行など」と「解釈」から生まれる。

 時計時間は、「生命・からだ」を除外して作られた「物理時間」「機械時間」。

 物理科学の場では、時計時間を使えばいい。「生命」は、物理だけで生きている訳ではない。

 生命には、生命の「時」がある。伸びたり、広がったり、円を描いたり、

再生したり、燃えてとけたり、光り輝いたり・・・。

 

☆ 宇宙が観ている無数無尽の夢のひとつが、私という現象。

☆ まずは、「息」を観ること。意味がないところに、意味が生(あ)る。