多層多重の生と無欲

 かつて、そして今も少々馴染めない言葉に「無欲」という言葉があります。
 馴染めない思いとは
 「人間は無欲という状態などなれるのだろうか?」という思いです。
 
でも言葉は記号です。言葉の所記と能記の関係は恣意的です。
文脈によって、ことばの意味内容が違ったりします。
 
無欲という言葉を、文脈の中で読むことにしました。
 
「無欲」以前に、「離欲」があり、離欲以前に「覚欲」があるという文脈を創りました。
 
 自分の欲に気付き(覚欲)、その欲から距離を置く(離欲)、
 そのうちに「私」の方が変質し、欲も変わってしまう(無欲)。
 
いつか幸せな、充実した日々を持ちたいものだ、と思うのはごく普通の人情であるように思います。
 
 しかし、いつの間にか今ここを「手段化」「道具化」してしまい、今ここでの「ありのまま」を味わっていなかったりする。
 いまここをありのままを味わおうとしても、既に「手段化、道具化したいまここ」しかみえてこなかったりする。
 
 無欲なアウトサイダーとは、多重性多層性を生きる人のことだろう。