熊野みんなの家ふう 認知症予測検査

今日の朝のことをお尋ねします。
「朝食に何を食べましたか」と、メニューを尋ねるのではありません。
『朝布団の中で目覚めた時、最初に何を思い、
そして何をどう決意して起床しましたか?』
とお尋ねしたいのです。
 
「決意」なんて大げさなことはなく、「いつものように」起きた、という人もいるでしょう。
 
いつものように、「習慣的」に起きたとしても
無意識的にかつ習慣的に起きたのでしょうか?
意識的にかつ習慣的に起きたのでしょうか?
 
今一度、振り返ってみましょう。
「もう時間だ。起き『ねばならない。』」と思ったのでしょうか?
「今日一日をこんな風に生きたい。その為にはそろそろ起きた方がいいな」と思いつつ起きたのでしょうか?
芭蕉がいうことろの「物の見えたる光」を感じながら、それと共に一日を生きたいものだ、と思いつつ起きてきたのでしょうか?
 
ここでの質問は、理想的な朝の起き方を決めて、
それを実行しているかどうかを問うているのではありません。
 
「朝だけでなく、自分の意識、自分のからだ、自分の行動に対して
目覚めつつ暮らそうとしているでしょうか?」と尋ねています。
 
私達は、実に多くのことを無意識的に、習慣的に行動しています。
一つ一つの行動をいちいち意識に登らせて行動していては、身動きが取れないでしょう。
 
意識・無意識の多層性、多重性について述べています。
 
今、1973年発行の 鈴木孝夫著 「ことばと文化」岩波新書を読んでいます。
 
イタリア人が、お米を食べること、パスタを食べることは知っていましたが、
この本を読むまでは、お米あるいはパスタを「主食」として食べていると思い込んでいました。
 
 お米にしても、パスタにしても、コース料理の「スープ」のようなものとは知りませんでした。
 
 「自分の文化にある文化項目が、他の文化の中に見出されたからといって、直ちにそれを同じものだと考えることが誤りなのは、その項目に価値(意味)を与える全体の構造が、多くの場合ちがっているからである。」(ことばと文化4頁) とあります。
 
 ある意識があって、それを見下ろすあるいは見上げるようなメタ意識、ある常識があって、その外から見つめる常識、を持てたらなあと思います。