朝、寝床の中で目覚めると、
「さて、今日一日どのように生きようか」と思う。
自分が望んでいないことが、いつだって起きる可能性があるとこころする。
それで、「一期一会」のように切羽詰った感じではなく、今日一日を大切に生きたいと思う。
今生きている時代が、様々な矛盾を抱えて進行していると感じている。
現在社会の「富の追及の仕方」「富の分配」の仕方や「人間モデルの多く」は適切でないと思う。
その矛盾の解決につながるような生き方をしたいと望みつつ
これまでの過去の時代において、またこれからの時代においても
理想社会が実現することはないだろうと思う。
そう思いつつ、人ひとりひとりの持てる可能性が十分発揮され、喜びを感じあえる人間関係、社会が実現されるよう貢献したいと願う。
通信制の大学で、心理学を学びだして5年目になります。
大学で学ぶ以前にも、ある心理学会に属していました。
その心理学会の見方(医学的モデルなど)以外の見方を学びたくて、一から大学で学ぶことにしました。
心理学という言葉に出会ったのは、高校生の頃で、おそらく小此木圭吾氏の著作だったと思います。
フロイトの著作を読み、ユングの著作を読み、それから交流分析やらトランスパーソナル、ゲシュタルト心理学やその他もろもろの心理学の本を読みました。
読み、学ぶ中でわかってきたのは、私達は、世界のありのままを見ている訳ではないということ。
世界があり、それを私達のからだ、感覚器官と脳組織、言語体系を通して、自分なりの世界を構築しているということ。
高校生の頃までは、この宇宙には唯一絶対の「真理」というものがあり、「科学」が明らかにしてくれると思っていた。
ところが、哲学世界では、真理とは「ありのまま誤りなく認識されたことのあり方」「認識と対象との一致」のことをいい、世界のある事象に対する言語による記述が、その事象と一致していれば、その記述を「真理」と言うことをしりました。
では、その記述と現実の事象が一致しているということを、私達はどのように確信しているのでしょう。
言語によって記述された内容と内容との間に、矛盾がないとき、私達はそれが真理と確信していると思いますが、矛盾している場合でも、例外で片付けたり、情報そのものをゆがめてしまうこともあったりします。
ですから、私が見たり感じたり味わったり生きている世界と、あなたが生きている世界とは同じであるとは言い切れません。
じゃあ、全然別なのかというと、それを言い出すことは意味がありません。
ことばを使って、語り合おうとするのは、一致はあるのかないのか云い切れないけれど、響きあおうとしていることを前提としていると思うからです。
より響きあうには、一つには、言葉遣いを磨くことでしょうね。