大丈夫です。語りえるところから語ってみてください。

「以心伝心」という言葉があります。そういう言葉で表現したいとおもうような出来事があるから、そういう言葉もできたのだと思います。

 とは言え、「以心伝心」の体験や解釈は色々です。
 
 広辞苑には
1.禅家で、言語では表せない真理を師から弟子の心に伝えること。
2.思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること。
とあります。
 
 この記述を読むだけではわからないことが色々あります。

1.禅の世界では、真理とは全て言葉で表せないと考えているのか、それとも真理には、言葉に表せることができる真理と表すことのできない真理があると考えているのか。
 「心に伝える」とは具体的にどういうことなのか、
 
2.「思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること」というようなことがほんとにあるのか、あったと本人がおもっているだけではないか、そもそも「思うこと」とは何なのか、その内容はイメージなのかそれとも言葉なのか、となると言葉によらずというのは、思うのは言葉で思ったが、表に出さないことを、言葉によらずといっているのか。
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  人はよく、「私のことをよくわかって欲しい」とか、「誰も私のことを分かってくれない」と言ったりします。 分かってくれないと言って、暴力的になったり、自暴自棄になったりします。
 
 そういった人々をよく観察すると、「これくらいのことは、言わなくてもわかってよ」という思いを抱いていたりします。あるいは、「言葉にしたことは、分かるはずだ」と思っている人もいます。「心が広くて、優しい人は、人の心が理解できるはずだ。」とか「知性のある人、大人の人、上に立つ人は、先生や医師、カウンセラーなどを職業としている人は、人を思いやって人の心が理解できるはずだ」とも思っていたりします。

 「大人であっても、その精神年齢は、約8歳で止まっている人が多い」という捉え方を以前聞いたことがあります。
 
 私達は生まれてすぐに話ができる訳ではありません。言葉がなくてもどかしくしていた時に、周りの大人が、言葉にして、問題や課題を解決していくといったことはよくあることです。
 
 精神年齢が8歳頃で止まっていたりすると、何か問題や課題にぶつかった時、周りの大人がその課題や問題の解決法を推し量って、その人のことを分かってくれて解決してくれることを、期待したりします。
 
 しかし、その人が抱えている課題とか問題というのは、幼子が抱えているような問題ではないでしょう。なのに、幼いころと同じように、周りの人が代わりに言葉にし、解決してくれることを期待して、期待通りにならないと、誰もわかってくれないと腹を立てたりします。
 
 問題や課題を解決するには、先ず何が問題で課題なのか、はっきり言葉にして認識する必要があると思います。

 「だから、誰も私のことを分かってくれない。」という表現は、つまりは、その本人も本人のことを分かっていないということ、本人自身が本人のことを分かっていないということも分かっていないということだろうと思います。

 そういう場合は、「誰も私のことを分かってくれないというけれど、あなたの何を分かって欲しいの?」と問うてみるのも一つの手かもしれません。
 
 自分のことを分かり、他の人のことを分かり、世界のことを分かっていくには、言葉の数を増やしていくこと、(体験し、感覚し、弁別し、分類していくこと)は必要でしょう。文章にして、文章と文章の繋ぎ方に矛盾がないようにつないでいくこと、つまり論理学も必要でしょう。

 自分を知り、分かろうとし、世界のことをわかろうとし、そこに色々な学問が生まれます。
 
 生理学、歴史学言語学、などなど
 
 諸々の学問と共に、学習の為の学習、心理学や認知理論や修辞学、瞑想学が必要でしょう。
 
 その中で、観察の理論負荷性とか、構造主義的な視点とか、縁起性、記号学というものの見方も必須だと思います。
 

 
 丁寧に世界を言葉化、記号化していく過程の中で、世界の全てを記号化できるわけではない、語りえるわけでないということに気付いていくことでしょう。
 
 語りえることは、語り尽くそうとすること。
 語れば、必ず分かる訳ではないけれど、少なくとも語ることによって、語っても分かりえる訳ではないんだなということが分かります。
 語りえる領域と語りえない領域の境界は、それは語りえない領域にあると思います。
 語りえる世界は語りえない大海の中に浮かんでいる島のようです。
 「野に咲く一輪の花」と、たった11音節で著わしたことを、語り尽くすことできますか?
 
海の深さを量りに行った塩人形は、海に溶けてしまったとさ。