死と死の受容 マルタとマリア あるいは 道徳性の発達 対人認知の

「いつか必ずこの世を去る」ということを思えば
あらゆる努力や人生そのものが、
無に帰ってしまうようで、虚しく感じてしまうときがあります。
 
そこで、虚しさを抱いたままで、
なるべく死を先送りしようとする努力をしたりします。
ある人は、「興奮・エキサイト」することで、
死ぬことを忘れようとします。
 
死の影はいつもそばにいて
逃げ切れないと観念した時
なんとか宥めようとする人もいたり
対話を始めるひともいます
 
対話の為に立ち止まったばかりの時は、拠り所が欲しくて、
日常のこまごまとしたことよりも
聖典を読んだり、聖者の言葉を求めます
 
立ち止まった最初は、
聖書の記述の通り
姉マルタの手伝いをしないマリアは、よりよい方を選んだのだ
と素直に受け取ります

<マルタ、マルタ、あなたは、さまざまなことに心を煩わせている。
 しかし、必要なことは少ない。むしろ、ただひとつである。
 マリアは、自分から奪われることのない、よりよい方を選んだ。>
(ルカ10・41.42)
 
それに対して、エックハルトは、
マルタの方がマリアよりも優れているといいます。
 
その文章を読んで、思索好きな人は何やらを語りだします
このことに関して
正教の人々は 聖なる沈黙の中にいるようです。
 
ただ、いつか死ぬということから目をそむけて逃げることをやめ
対話が始まり、共に歩むようになると、
日常の細々したことの中にも
永遠性を見いだせるようになると思うのです。
 
(マルタがもし、既に共に歩んでいたのなら、イエスに「妹に、私を手伝うように命じてください」とは言わないかなあ、と私は思ったりします。)
 
いつか必ず死ぬということに対して
逃げたり、耳をふさいだり、目をふさいだりするのは
早くやめにした方がいいように思います。
 
立ち止まったからと言って、すぐに話し合えるようになる訳ではありません。
 
振り返ると、そこには、異臭を放ち、蛆がわいている姿がみえたりします。
 
認知の発達に関して、心理学の領域では有名な
ピアジェの理論があります。
ピアジェの理論によれば、2歳から7歳くらいまでは、前操作期といい
「自分自身の視点に影響され、他者の視点を考慮することが難しい」とされて言います。
 
その具体例として「三つの山問題」という課題があります。
 
心理学の教科書に載っているこのピアジェの理論と例を、
多くの「大人達」は、ひとつの知識として読んでしまい
今自分が面している課題への智慧としては読まず
私ははるか昔に、前操作期を超えたと思いがちです。
人生の至る所にこの「三つの山」が存在することに気付かなかったりします。 
 
イエス・キリストとマルタとマリアの姿も
観る位置や発達が変われば、見え方が違ったりします
 
死の姿もまた、変わったりします