忍辱 イエス・キリストにならいて

忍辱 イエス・キリストにならいて

何を快として、何を不快とするかについては、人それぞれですが
私達人間は
快と感じるものごとには接近し、不快と感じるものごとから離れようとします
  
快不快の感覚が伴っているかどうかはわかりませんが
単細胞生物も、生命を維持させる物やできごとには積極的に接近するでしょうし
生存に危険な物質やできごとからは、遠ざかろうとするでしょう
 
どんなに快なる物やできごとに接近し続けたとしても
人間は、やがて老いていき、必ず死にます
おそらく他の生物個体もそうでしょう
 
動物達も危険が迫れば避けようとするし、それでもいつか死んだりしますが
平時において、死ぬことの予測や不安はないとおもいます

人間は、平時でも、自分の死を予測することができます そこで
受け入れがたい死と受け入れてもいい死というものを
考え出したのかもしれません
誰もが結局、自分の死を受け入れざるを得ません

では、私達は、どのような死が受け入れてもいい死で、
どのような死が受け入れ難い死としているのでしょうか
 
一般的には、あらゆる死が、受け入れがたい死であり
直面して、抵抗しながら、受け入れていくのかもしれません
 
抵抗の仕方で、苦しみが変わったりするのかもしれません
どのように抵抗し、どのように受け入れるかは、人それぞれ
 
でも人間は、時に他の人を犠牲にしてでも、抵抗したりします
 
どうすれば、あなたの死を、私の死を、平時において
苦しみを少なくして受け入れることができるのでしょうか
人は考え、また人に説きます
 
死にとうない、でも、必ず死にます
釈尊は、信者さんから供養された食べ物にあたって亡くなりました
エスキリストは、十字架にかけられなくなりました
さあどういたしましょう?
 
哲学が生まれ、宗教が生まれます
それらの知識は知識として、さあどうしましょう?

知識が苦しみのもととなったり、また苦しみの解決の鍵ともなります
仏教では、苦しみの根源は、「無知」といいます
「貪り」「瞋・いかり」「癡・無知」を三毒といいます
さあ、今この時、どう生きましょう?
 
受けとりがたいけど、受け取らざるを得ないものごと
それは、死だけではありません。
自分が正しいと信じていることであっても
思い通りになるとは限りません
ゆるしがたいけど、ゆるすことでしか前に進めない時もあります
 
仏教では「忍辱」といい
キリスト者は「キリストにならいて」といいます
 
不快なことだけでなく、心地よいことの中にも、苦は潜んでいます
煩悩の火が、背中で燃えているのに
煩悩の火は、熱くなかったりします
むしろ心地よかったりします それは仏教でいう貪りにつながったりします。
さあ、どういたしましょう?

無常と不条理のこの世にあって
この世を超えて輝く霊性の光
時に、夜空の小さな星
時に、一切をあまねく照らす太陽の光
時に、貧しき家の窓辺にともる暖かい光
 
光と共に生きられますように