自己一致 南無阿弥陀仏とキリスト者の祈り

 私が今読んでいる社会心理学の本にこうあります。

 <かつて、ロジャースは、「現実的自己」と「理想的自己」の不均衡が大きくなるほど自己の統合性が失われ、情緒的な問題が発生することを臨床的経験から論じた。>
 
  アドラー心理学では、理想の自分と現実の自分を較べて、現実の自分は劣等と感じることを劣等感といいます。
「実践カウンセリング」<現代アドラー心理学の理論と技法>という本の中に、
<人間は理想の自分(自己理想=人生目標)にむかっていきていきます。従って、目標追求をしている限り、人間には劣等感があります。人間は、生きている限り、目標追求をやめることはありませんから、人間であるということは、すなわち劣等感を持つということです。>とあります。

先ほどの社会心理学の本に、
<ガーは、現在の生活水準と本来自分達が享受すべき生活水準の差―要するに、期待と現実のギャップ(相対的剥奪)の主観的評価―をフラストレーションの源泉とした。>とあります。
相対的剥奪理論では、
<人々の抱く不満 は、社会的境遇の絶対的な低さに起因するのではなく、希求水準(アスピレー ション・レベル)と達成水準(アチーヴメント・レベル)との相対的な格差から生じる>と言います。
 仏教でいうところの「苦」の語源は、「思い通りでない」ということだそうです。
 
 このように、多くの人が指摘するように、理想と現実のギャップは苦しみを生みます。



 何度もこれまで述べてきましたが、私には「死ぬとき苦しまずにいたい。後悔しないでいたい。そんな自分でありたい。」という理想的な自己像があります。

 ところが、その時のことは、どうなるのか、実はわかりません。

あるいは「そうなるためには、○○せねばならない」と、色々思い計らっているのですが、いつの間にか、現に今生きている「今ここ」を充実させることよりも、理想に近づくための手段の達成の為にあくせくしてしまいがちです。
更に、その理想の自覚や手段の自覚も薄らいでしまい、ただ様々な「○○すべきだ」という思いに追いたれられてしまったりします。

 漠然とした不安やあせり、イライラの原因を探っていくと、「死ぬとき苦しまない、後悔しない自分でありたい。」という理想の自己と、そうなれるとは確信が持てない現実の自己との不一致があります。
 

 これも何度も述べてきたことですが、その自己の不一致、劣等感、苦を感じる時、いつも一遍上人の語録を思い出します。

 在家の信徒さんが、「南無阿弥陀仏と念仏することで極楽往生できることに疑いはありませんが、いよいよ臨終となった時その苦しみによって、果たして念仏を唱えることができるかどうか自信がありません。」といいました。

 それに対して一遍上人は述べます。「今この時に念仏を唱えることができないものに、臨終のその時に念仏できるだろうか。只今の念仏の外に臨終の念仏なし。」と。

 またあるときには、「道心者は、常日頃から悪縁を捨てるものだ。臨終になって捨てるということは難しい。常日頃の暮らしぶりが、臨終に現れるものだよ。」と述べています。
 
 死ぬときのことは死ぬときのこととして、それよりもいまここ、あるいはそれだからこといまここ、南無阿弥陀仏の心境で生きたいと思いつつ、怨憎会苦、人間関係で対立し、腹を立ててしまう、あるいは未来の生活の不安がもたげてくるのが私の現実で、忍辱修業のできない自分を思うと、今もそして臨終のときの自分のあり方にも自信が持てなくなったりします。

 アドラー心理学の言うように、生きる限りは、理想と現実のギャップ、劣等感は必ずあるように思います。
 
 そのことを自覚したうえで、劣等感や、不一致、相対的剥奪、あるいは怨憎会苦、忍辱修業とどう向き合うかです。
 
 来談者中心療法といえば「傾聴」「共感」「受容」という言葉を思い浮かべますが、ロジャース自身は、「自己一致」が大切といったそうです。
 
 以上のことを考えると、「自己一致」は並大抵のことではありません。

 
 苦しみは縁起するもの、諸法無我と思いつつも
 「いまここ」での忍辱修業が出来かねている自分自身を感じた時、浮かんだのが、ゴルゴタの丘に建てられた三本の十字架です。
 
 矢内原忠雄著「イエス伝」に
 <イエスの左右に十字架につけられた強盗の一人は、イエスをそしって「汝はキリストならずや、己と我らを救え」と言ったが、他の一人はこれをいましめて、「イエスよ、御国に入り給う時、我を憶え給え」とお願いしました。それに対してイエスは、

 我まことに汝に次ぐ、今日汝は我とともにパラダイスに在るべし。

とお答えになった。>とあります。
 
 これもまた何度か述べてきましたが、私は二回ほど死にかけたことがあります。
 その体験を思い起こすうちに、自分なりに、ゴルゴタでのできごと意味を見出しました。
 
聖書の記述の中に
どんな意味を見出すかは、人それぞれであると思っています。
ですので、その内容は今は書きません。
ただ、小さき者、弱きもの、貧しいものが生きる道と救いを示されたと思っています。
 
南無阿弥陀仏
「浄土の本」学習研究社発行 には、
<遥か遠い昔に、一人の王が出家して、法蔵と名乗った。世の中の全ての民衆を苦しみから救いたいという思いからだった。彼は誓願を立てた。
 「あらゆる世界の人々が、私の建てる極楽という国に生まれたいと願って私の名前を称えた時、それがかなえられなかったならば、私は仏とはならない。」
 法蔵は、長い修業の末、ついに仏となった。
 名を改めて、阿弥陀仏。>
 
誓願を立てた法蔵菩薩阿弥陀仏になられたのだから、誓願は成就し、南無阿弥陀仏と称えれば、称えるものは誰でも極楽往生できる、ということを、念仏者は信じます。
 
キリストは、十字架の上で、「汝は我とともにパラダイスに在る」といいます。
 
ロジャースの言う自己一致は、
理想の自己と現実の自己が一致することではないのではないか、と思っています。

理想の自分と現実の自分と分けてしまってから、それを一致させようというのは、喩で言うなら、右手と右足を一致させるのようなことだと思います。
 
右手はどうしても右足にはなれません。
しかし、右手と右足は、別のものでもありません。