自己一致 ニーバーの祈り マタイ伝

 ロジャースの著作を一冊も読んでいないのに、また来談者中心療法のカウンセリングを実際に体験したこともなく、ただ、来談者中心療法を学んだことがあるという何人かの人の発言を聞いただけなのに、これまで、来談者中心療法、いわゆるロジャーズ派カウンセリングには、余りいい印象を持っていませんでした。
  
 「傾聴」とか「共感」を強調する割には、その人から受ける印象は、うわべ的、偽善的、建前と本音が違うという印象を受けたからです。
 元々力のある人が、何かのきっかけで躓いている時、ただ傾聴するだけで、その躓きを乗り越えられることは確かにあるだろうけど、全ての人、全ての事例に当てはまるわけでもないだろう、とも思っていました。
 
 最近になって、ロジャースが、カウンセラーの必要条件として「自己一致」がのべられているということを知りました。
 
 自己一致という概念は今まで知らなかったので、色々調べてみると、色んな人が色んなことを書いています。でもしっくりきませんでした。
 
例えば、
 「カウンセラーは、ただ傾聴するのではなく、来談者について感じたことは包み隠さず表明することが自己一致だ」という説明がそうです。

 自己一致を、カウンセリング辞書なんかで調べると、おおよそ次のようになると思います。

「自己一致とは、自己概念(そうであるべき自分)と自己経験・有機体的経験(あるがままの自分)が一致している状態のこと。ロジャースの来談者中心療法において目標とされる健全なパーソナリティの状態。逆に自己概念と自己経験の不一致がクライエントに不適応をもたらすことになるのである。クライエントを目の前にしてカウンセラーは自分が感じていること・経験していることを否認したり歪曲してはならない。心理療法の場では、セラピストの自己一致が、クライエントの不一致から自己一致状態へ変化、治療効果をもたらす為の必要条件とされている。」
 
言葉の意味を、辞書のみ、著作のみで調べるのは限界があります。テストの回答なら書けるかもしれませんが、ロジャースがどのような意味を込めて使っていたのかは、傍にいて、ロジャースのカウンセリングに参加して、ロジャースから印可を得て、わかることなのだろうと思います。
 
ロジャースのなき今、文章を読んで知るのではなく、自分の身を以って探求し、知るしかないと思ったりします。
 
 自己一致の対立語は、自己不一致です。
私には、「いつまでも生きていたい、生き続ける自己でありたい」という自己理想像がありながら、一方で「私は、日々年老いて、いつか必ず死ぬ」という自己現実像があり、自己像は不一致状態です。
 
私には、「できたらだれとでも仲良く暮らしたい。平和に穏やかに、楽しく充実し意義のある人間関係を結びたい、結べる自分でありたい」という理想像がありますが、現実は、「退屈と感じる人や、楽しくないと感じつつ、あるいは対立しつつも結んでいる」現実の姿があって、不一致状態です。
 
自己一致は必要条件であるのはその通りなのだろうけど、
自己一致できている自己という理想と、自己一致できていない現実の自己という、メタ不一致状態から抜け出るのは大変と思っています。
 
そんなことを考えていたら、ニーバーの祈りのことがふと浮かびました。


God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things that should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。

God, grant me the SERENITY to accept the things I cannot change;
COURAGE to change the things I can;
and WISDOM to know the difference.

Living one day at a time,
Enjoying one moment at a time;
Accepting hardship as the pathway to peace.
Taking, as He did, this sinful world as it is, not as I would have it.
Trusting that He will make all things right if I surrender to His Will;
That I may be reasonably happy in this life, and
supremely happy with Him forever in the next.

Amen

一日一日、一瞬一瞬を大切に丁寧に生きて
苦しみも平和へ続く道として受け入れ
エスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず
主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じて
そして、現世では適度の幸福を
来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。
アーメン

この祈りは、例えれば、迷宮の入り口に掲げられた碑文だと思います
なぜなら、変えるべきことを変えるにも、変わらないことを受け入れるにも
勇気や心の静けさはもちろん大切ですが、やはり「智慧」がないと
変えられません、心を静かにし、受け入れることができないとおもうからです
 
例えば、通貨制度やお金に対する思い込みは、勇気だけでは変えられません

(中断)


先ほどまで、生まれて初めて教会に出かけ、日曜礼拝に参加してきました。
礼拝に先立って、聖書を手渡されました。
 
礼拝が始まるまで時間があったので、マタイ伝を読みました。
 
第7章 なんじさばくなかれ とありました。