所属するという「コト」 モノとコトの階層性

ふと、今日の朝は、「所属感」という言葉が浮かんできました。
  
人間の基本的な欲求として、「所属欲求」を考えることが出来ます。
  
有名なところでは、マズローの欲求階層説の中の所属欲求です。
 
 あるいは、アドラー心理学に属するドライカースは、

「個人それぞれは、自身が社会に受け入れられるために努力している。他者に所属していると感じるための欲求、それが人間の根本となる動機である」
と述べています。
  
所属欲求とは、なんらかの集団に所属して生活したい欲求のことといわれますが、何を以て所属・帰属というのか、法的、実際的な所属と所属感の違い、家族・親族、学校、職場、趣味・サークル、宗教、市民活動、政治活動、地域社会、国家、民族など、所属する対象と媒介はなんなのか、色々検討すべきことも色々あります。
 
 またその欲求は、食欲・睡眠欲といった本能的欲求が満たされて生じる欲求なのか、同等の欲求なのか、捉え方は一つではないでしょう。
   
無から有が生まれる訳ではないので、生物学的には父親と母親が必ずいて、この世に生まれてきます。しかし、そのまま家族を形成するとは限りませんし、家族を形成したとして、望んでいるような所属感が得られるとは限りません。
    
 家族にしても、家族だけで生活できるわけでないので、実際的に何らかの集団に所属しています。しかし、そこでも所属していることと、所属感は別です。
    
 逆にはっきりした所属感を自覚していなくとも、所属してしまっている場合があります。
     
 例えば、行動規範や判断基準を形成するもととなっている準拠集団への所属です。
      
好意的な感情ではなく、反発を感じていても、実はその集団に所属していることもあり得ます。
     
改めて所属感とは何かを考えるとき、私は、
「自分が規範としたい判断基準を持った集団が存在する」と感じること(コト)が、所属感だと思っています。
(自覚的所属感の始まりだと思います、に書き換えます。6月27日)
   
「存在する」という言葉の意味は、実在するということと同じではないと思っています。集団もまた流動的な「モノゴト」と思うからです。所属の対象は、「モノ」とは限らない「コト」もあり得ると思っています。
    
というのは、自分という存在そのものを「コト」と捉える人には、所属する対象も「コト」でしょう。家族も「コト」です。
  
モノはコトを為し、そのコトがさらにモノとなり、そのモノがさらにコトを為しているように私は捉えています。
  
例えば、タンパク質というモノが羊毛というコトを為し、羊毛というモノが、毛糸というコトを為し、毛糸というモノがセーターというコトをなしているといった具合です。
    
そして、わたしというコトと何らかの対象集団というコトとの間に生まれる所属感は、シンボリック交互作用論的に、複雑系的に、創発的に形成されていると思っています。
  
仏教的に言えば、「色即是空、空即是色」
因果に眩まず 
予定は立てても、予定に縛られず、思い通りにならないときは、建て直す
    
人間が生きていくには、なんらかの実際的な所属と所属感が両方必要と思います。
   
この世界を、物質的に、実在的に、線型的に、因果論的にしか捉えられない人は、所属感を求めて、求めきれず苦しいと思います。
    
所属感は、風のよう、虹のよう、セーターのよう
  
コトはコトを起こすことで、コトとなるでしょう
 
どのようにどのようなコトを起こすかについては、
また別の機会に