「生存権」 今日一日の糧を与えてください

生存権」という「コト・概念・言葉」があります。
 
法の条文としては、
日本国憲法第25条
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
 
国際人権規約第6条1項
「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する。この権利は法によって守られるべきである。誰もこの権利をみだりに奪ってはならない」
などが挙げられます。
 
明文化されていなくとも、、世界人権宣言第3条がいうように「人は全て、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」ということを、多くの人は、基本的には、心情としてきたように思います。
 
ただ、生存権というのは、一般的には、国家に対して一定の作為を請求する権利のことです。
あるいは、国語的には、人が人に請求する時にも使います。
つまり、人が人、人の集団に対して請求する権利です。
 
そもそも、権利の権という字は、「仮に」という意味を持つ言葉です。
権化とか権現という使い方をします。
権という漢字には、「勢いがある」という意味もあるそうですが、
権力という言葉に対して私は「仮に与えられた力」のこと、と思っています。
 
ですので「生存権」も、人間同士の間で、構成される権利であると思っています。
つまり、人が人に請求できる権利ではあるけれど、自然世界に対して請求できる権利ではないと。
 
明日も生きる権利を人間同士には請求できても、自然世界にも同じように請求できる訳ではない、つまり明日の命のことはわからない、請求できないと思うのです。
 
それがうっかりすると、世の中に対してだけでなく、自然世界に対して永遠の糧を求めてしまったりします。今日一日の糧だけでは、不満足であったり、不安になったりします。これは貪欲です。
 
今日一日の糧しか得ることができず、そして同時に一日の糧を得られるだけでそれ以上を求めようとは思わない暮らしをしていた時代があったように思います。
 
領主様や教皇にとってはそういう人々は都合よかったかもしれません。
 
しかし、農業技術が発達し、生産が増え、剰余の交換が生まれ、市が立ち、商品が流通するにつれ、物質的には豊かになる一方で、分業が進み、今日一日の糧では満足しないようになって行ったのだと思います。
 
生かさず殺さずという言葉がありますが、生産農民は殺すわけにはいきません。殺せば生産が減ります。しかし、人口が増え、分業が進めば、労働者を直接殺しはしないだろうけど、代わりがいくらでもあるときは、勝手に死んでしまってもいいと思い、簡単に「首切り」するでしょう。
 
実際に首を斬る訳ではないけれど、結果的には切ったことと同じようなことになるので、そこに「生存権」という「コト・概念・言葉」が条文として生まれたように思います。
 
先程、今日一日の糧では満足しないようになったと言いましたが、通貨システムの変化と共に、収奪の仕方の変化もあり、それが貪欲をかきたてていったと思います。
 
生産農民からの収奪は、生産物を直接収奪すればいいのですが、労働者が生産した生産物を収奪しても、モノが増えるだけです。
 
モノは劣化するし、保存も大変です。お金で保存するのが一番便利です。
 
そのためには、銀行というシステムや株式会社、債券というシステムがいいでしょう。
 
生産物を収奪するのではなく、労働者により多くを消費させるのです。
山を削り、トンネルを掘り、高速道路を創り、新幹線を走らせ、原発などの発電所を建てる
大量生産、大量消費
そういうことを銀行に借金しながらするのです。
 
その利子払いを結局は、労働者に負担させる。
 
銀行は銀行で、「信用創造」という方法で、通貨(贋金)を増やしていきます。
 
そうやって、労働者の「貪欲」は焚きつけられ、
今日一日の糧をもとめたり、与えられたりすることへの感謝を消していったように思います。
 
今日一日の糧を与えられる とは、現代においてはどういう内容をいうのでしょう
生産農民と賃金労働者の一日の糧は違うでしょう
 
信用創造で巨額の富を作り出したところで、そこには限界があります
 
その限界に向かって、人の世の格差は広がり続けるのでしょうか。
 
人は一人では生きられません。
人間は人間だけでは生きられません。
そして、自然世界に対して、人間は生存権を請求できません。
 
国連によれば
現在、地球上の人口は約70億人で、食糧生産は120億人分生産されているそうです。
だのに、約10億人が飢えている。
 
自然世界から、日々の糧は、与えられているのです。
 
必要なことは、自分の「貪欲」をみつめること