「知ある無知」 「隠れたる神」 私という現象は仮定された・・・

「神」という言葉を、日常生活の中で、ごく普通に使う人々
「神」をごく普通に話題にする人々に対して、
私は、
この理性と科学の時代にあっては、「特殊な人々」と
そういう見方をしていました。
 
しかし、認知的な心理学の勉強、全体論に関する哲学
複雑系科学のこと、キリスト教神学の歴史的変遷
などを学ぶ中で、
自分自身の思い込みも感じるようになりました。
 
「神」という言葉をそのまま(要素論的、実在論的に)使うには、
慎重でありたいと思うと同時に
人間の(認知などの)有限性の自覚もまた大切であると思うのです。
 
そして
有限性を通して、永遠性を垣間見ることもあると。
 
また
「有限性の自覚」といっても、じっくり考えると、難しい面があります。
 
例えば、
「人間はやがて必ずこの世を去るだろう」
「私も、やがて必ずこの世を去るだろう」
と文章で考えることができます。
 
「人間はやがて必ずこの世を去る」ということをおもうのは
父が亡くなり、母が亡くなり、友人が亡くなり、といった具合に
具体的に身近にいた人(二人称)が、実際に亡くなったからです。
しかし、自分が亡くなるということ(一人称)を具体的に思い浮かべようとしても
思い浮かぶのは「文章」ばかりで、実感として感じません。
 
二度ほどの臨死体験があるので、痛いとか、からだが衰える、薄らいでいく意識といったようなイメージは湧いても
死ぬことの実感とは程遠いです
 
それなのに、一方では、死ぬことをなるべく先延ばしにしようと
急き立てられているような漠然とした感じもあるのです
 
 
私達は「有限」という言葉も、永遠という「言葉」も知っています。
  
言葉の意味を(辞書的に)知っていることと、
その言葉(の意味)を感じていること、
あるいはそれを生きることは同じではありません。
 
「有限性の自覚」なんてことをいいましたが
それをじっくりわがこととして見つめようとしたら
それは、まるで「逃げ水」のようです
 
体験やイメージを言葉にするという過程もあれば
言葉がイメージを作り出してしまうこともありますね
 
言葉といえば、私は日本語で考え事をします
簡単な英文なら、読むこともできます
 
でも、サンスクリット語シンハラ語はわかりません。
サンスクリット語シンハラ語の、中動態や与格主語といった言語使用ができたら
世界の見え方が違うように思います
 
与格主語というのは、
「私は忙しい」というところを、「私に忙しい」という表現をすることだそうです。
 
「私が今ここにいる」「私はいつかこの世から去る」
ということも
与格主語で表現すれば
「ここに私性が現象している」「いつか、私性という現象は現象しなくなる」
とでもなるのでしょうか
 
となると、宮沢賢治春と修羅の序文が思い浮かびます
 
私という現象は、仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)