三呼吸瞑想法

書きかけの文章だけど、いつ書きあがるかわからないので、下書きとして残しておくことにしました。


人生が変わる、世界が変わる 禊ぎとしての 三呼吸瞑想法

三回深呼吸するだけで、心身が浄化され、人生が変わります

生き甲斐ある人生をつくる 三呼吸瞑想の解説書
 
<あなたにとって世界はどのようなところですか?>

私達が今住んでいるこの世界とは、いったいどのような世界なのでしょう?
ある人々は、この世は「弱肉強食の競争社会」だといいます。
ある人々は、このままいくと、「人類は滅びる」といいます。
またある人々は、それらは試練であって、理想社会が実現されると説きます。
そしてある人々は、いつの時代にも、神々の恩寵、仏の恩光に満ちているといいます。
あなたにとって、この世界はどのようなところでしょう?
 
世界が神々の愛や仏の恩光に満ちている、と日々感じている人は、この書を読まなくていいでしょう。そういう人には、そういう人の、仕事や使命があるでしょうから、それに邁進いたしましょう。
 
今生きているこの世界において「自分の人生を生き甲斐あるものにしたい」と願っている人は、その一つの方法として、心身浄化、禊ぎとしての、三呼吸瞑想法をお勧めします。しばらくお付き合いください。試しに実践して、判断してみてください。
 
<哲学 本当の姿と認識>

同じ地球、同じ時代に生きていても、人によって、いま生きているこの世界の捉え方が違うようです。時に、世界の姿と人間集団のあり方をめぐって、「どれが本当の世界の姿であるか」と、私達は論争したりします。時に、「世界の本当の姿は何なのか」と、私達は、探し求めたりします。
 「目に見える世界とは別に、どこかに、世界の本当の姿がある」「そして、その世界を認識し、一体になろう」という捉え方自体が、数多くある世界の捉え方の一つの捉え方です。
 
哲学の領域では、「世界の本当の姿はどのようなものか?」を考える領域を「存在論」領域といいます。そして、「私達は、世界をどのようにして捉えているか」を考える領域を、「認識論」領域といいます。
 
私たち一人一人の世界の捉え方、主観を超えて、どこかに世界の本当の姿、世界の本質、世界の実体がある(実在論)と考え、それを見出し一体化しようとするのも一つの世界の捉え方ですし、私達は、私達の主観で作り上げた世界に住んでいる(唯名論)というのもまた、一つの世界の捉え方です。
 
私は、私にとって世界はどのようなところであるか、もちろん身の回りの社会情勢、他者の存在や行動も大きく影響していますが、「私自身の日々日常の認識、ひとつひとつの行動」が私が住むこの世界に大きく影響していると思っています。人生が変わる、世界が変わるには、まず私自身が日常の認識と行動を変えることだと思っています。その一つの方法として、三呼吸瞑想法をお勧めします。
 
<この世界は、競争社会か?>
 
小学生から、青年期にかけて、私は「この世は競争社会だ」と思っていました。なぜなら、いつも学校でテストを受け、成績で評価されていたからです。「いい成績をとって、いい大学へ行って、いい会社に入れば、経済的に豊かになる、そのことが幸せに繋がる。暮らしが貧しくなると、心も貧しくなりやすい。」と思っていました。(いい会社に入ったところで、その後も競争は続きますけどね。)
と同時に、そういう競争社会に加わることが嫌でした。学校をやめたり、放浪旅をしたり、転職して漁師になったり、ちょっとだけ変わった生き方をしてきました。

 グローバリゼーション、自由貿易による経済格差の拡大、自然破壊、戦争や紛争そういう現象を見ていると、この世は競争社会と思ってしまいがちです。
 いまは、私は、この世界の本当の姿、本質は、競争社会だとは思っていません。かといって、競争社会ではないとも思っていません。この世は競争社会だと思っている人々が、この世を競争社会として現象させ、そういった現象がまた、人々をこの世は競争社会だと思わせている、そういったフィードバックシステムが成り立ってしまっていると思っています。
 決して、人間の本質が、競争志向であり、世界の本質が競争社会だとは思っていません。
ただ、ついつい社会の一員として、無自覚に暮らしていると、その流れに飲み込まれてしまい、そういった世界をつくってしまうと思っています。
 そうならないために、常に自分の生き方を軌道修正する方法として、世界と自分との有機的なつながりを自覚する方法として、実現する方法として、三呼吸瞑想法をお勧めしたいのです。
 
<「ものごと」の捉え方と出来事のフィードバックシステムについての簡単な解説>
  
少し、哲学的な話をします。(読み飛ばしてもらって結構です。)
幼い頃、虹は「実在するもの」だと思っていて、出来事、現象だとは思っていませんでした。
「虹の根元には、宝物が埋まっている」と思っていて、「そこへ行きたいものだ」と思いました。
小学生になって、虹は、水蒸気や光や地形や人間と太陽の位置関係で現れる出来事、現象であると知りました。しかし、水蒸気や人間や地形は「もの」と思っていました。
しかし、青年期になって、物理(量子力学)や化学や言語学を知り、ものと思っていた、水蒸気や人間や地形もまた、現象であると思うようになりました。

チベット仏教の中観帰謬派では、「ものとこと」の関係について、難しい言葉を使って説明しているようですが、ともかく、
私達が観察する出来事、現象の基礎として、実在する「もの」があります。「もの」に由来しない「現象」を私は知りません。虹が現象、出来事であるとして、水蒸気は「もの」です。ところが、更に詳しく観察すると、水蒸気もまた、出来事や現象であり、その出来事を支える「分子や元素」という「もの」があります。分子や元素は「もの」であるようにみえますが、更に詳しく観察すると、それは原子核や電子というものによる現象、できごとです。
このように、「もの」が「出来事」をつくり、その「出来事」が「もの」をつくり、さらにその「もの」が「出来事」をつくるというものとことは階層構造になっているといえます。更に、その全体は、「生きている」ということです。
「競争社会という現象」は、この世は競争社会であると思っている個々人、「もの」が生み出しているものです。そして、この世は競争社会であると思っている人間個人の認識というものも実は、現象であると思います。決して本質、永遠に変わらないものではない、と思うのです。変えられるのです。三呼吸瞑想法によって。

<三呼吸瞑想法の具体的な手順>

では、実際にどのようにして三呼吸瞑想法を行うかを説明します。
調身、調息、調心という言葉を、今までどこかで聞いたことがあるかもしれません。身体と呼吸と心とは別のものではありません。先ほどのものとことを使って説明すれば、ものとしての「身体」がないと、「こと」としての「呼吸」はあり得ません。身体あっての呼吸です。そして、その身体は、呼吸無くして身体ではあり得ません。呼吸のない身体は遺体です。しかし、解説の為には、身体と呼吸を分けて説明したほうが理解しやすいと思います。
先ず調身。無理なく、背筋を伸ばします。無理なく背筋を伸ばせば、無理なく深呼吸ができ、無理なく深呼吸ができれば、無理なく背筋が伸びます。
瞑想練習の段階では、坐法は、正坐か椅子に浅く腰かけるか、あるいは、座布団を敷いて、達人坐になります。座禅でよく見られる結跏趺坐とか半跏趺坐という坐り方は、よっぽど股関節の柔らかい人にしかお勧めしません。瞑想は苦行ではありません。深くゆったりとした呼吸ができる姿勢をつくるのが、調身の目的です。(坐法の詳しい解説は、実践の場で行います。)

次に調息。これもまず、無理なくゆっくりと息を「吐く」ことからはじめます。丹田式呼吸とか逆腹式呼吸といいます。ゆっくり吐くとき、最初はお腹をへこませません。むしろ、お腹を突き出すように息を吐きます。(ここがいわゆる腹式呼吸とは違います)掌をお腹に当てて、感じてみてください。(同じく現場で詳しく解説します。)できるようになれば、難しくないのですが、初めての人には難しいことかもしれません。口笛が吹ける人は、できるだけ長く口笛を吹いて、あるいは、発声練習のように「あ〜〜」と声に出して、長い息の練習をしてみてください。吐ききったら、さらに腹筋を使って、お腹をへこませて、残っている空気を押し出します。吸う息の方は努力しません。脱力すれば、空気が入ってきますので、自然(自律呼吸)に任せます。
唇に隙間をつくり、そこから空気が漏れていくように、ゆっくりと息を出します。呼吸の呼という字は、息を吐くことです。吐いて吸ってを一呼吸とします。それを、三呼吸します。
ゆったりとした呼吸ができるようになったら、一瞬一瞬吸っている空気というものが、この世界に、どのように生まれているか、また肺の中でどのように赤血球と結びついているか、血管の中を流れ、一つ一つの細胞に届いているか、観想しましょう。

<無念無想と三呼吸瞑想法>
 
瞑想といえば、「無念無想」という言葉を思い浮かべる人が多いようです。
確かに、仏教の中でも、禅宗は、「無」という言葉を多く使ったりします。
三呼吸瞑想は、無念無想の瞑想ではありません。気づきの瞑想、集中し観じ続ける瞑想です。

仏教徒にとって、最も基本的な教えとして、「七仏通誡偈」があります。
漢文では、
諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くせよ
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり
と書かれます。
 ですので、無念無想とは、無邪念無邪想のことである、と私は思っています。仏教の教えは、哲学的な無欲を説くことではなく、利己心に気づき、注意を払い、抑制し、利他心に生きることを進めていると捉えています。
それを実現するには、自浄其意、瞑想によって、意を清くすることだと思っています。三呼吸瞑想は、自分を清める禊ぎの瞑想です。
道元禅師は、悪を為さないために瞑想するのではなく、きちんと瞑想生活を送っていれば、悪を為すことがない、と述べています。) 

<三呼吸瞑想と諸々の能力向上>

三呼吸瞑想を続けていると、観察力が向上します。観察力が向上すると、いろいろな情報の中に、差異を見出すことができます。あふれる情報の中に構造や階層性を見出す(構成する)力が付いてきます。より細かな差異と階層性が見いだせたら、それに対する対処もきめ細やかなものになります。そうすることで、色々な能力が向上します。
私の場合、練習しないのにギターが弾けるようになりました。それと、苦手だった絵が楽しく描けるようになりました。(絵に関しては、2時間程の導入レッスンを受けると、誰もが描けるようになります。)

<禊ぎについて 論理的思考とありがとうという言葉と合掌という行為>

「恨まない、妬まない、貪らない、腹を立てない」と思っていても、つい何事かをきっかけに、恨んだり、貪ったり、腹を立てたりしてしまいます。
そこには、本能というよりは、無意識的な、学習、判断や論理があります。熱いものに触れて、思わず手を引っ込めるのは、反射です。血糖値が下がるとお腹がすいたと感じて、食べ物を手に入れ、調理して、食べるのは本能や学習です。
生まれたばかりの赤ん坊に、「あなたはまるで猿のようだ」といっても、赤ん坊は腹を立てません。しかし、着飾った人に「あなたはまるで猿のようだ」といえば、その人は腹を立てるでしょう。この腹を立てるという行為は、反射でも本能でもありません。
腹を立てるには、腹を立てる論理があります。テレビやテレビゲームの暴力場面を視聴することと、暴力的な行為の発現との関係を、多くの心理学者や社会学者が調査しています。因果関係を見出すところまでは至っていませんが、条件によっては、相関関係は見られます。また、文脈から理由があり、正当性のあるとみられる暴力シーンを見た後は、暴力行為は増加するという報告もあります。
このように、腹を立てる人にはその人なりに、自分自身の論理性でもって、腹を立てることを肯定し、その行為を選択しているように思います。しかし、それは、ほとんど無意識的に行われています。
瞑想によって、腹を立てるきっかけになった出来事と、自分の感覚や、自分の判断が生じる瞬間を観察し、意識化し、出来事と行為の結びつきを切ることができます。自分の行為の結果の予測を行うことができます。
しかし、「言うは易し、為すは難し」です。
ですので、「禊ぎ」が必要となってきます。背筋を伸ばし、深呼吸をするだけでなく、合掌し、ありがとうという言葉を唱えると、禊ぎの力は増します。