わかりあえるということ

わかり合えるということ
 
私は海辺の町で育ってきたので、魚が好きだ
 
結婚して以来、都会育ちのつれあいは
時々、スーパーで買ってきたサバの塩ものを副食にする
 
私は、このスーパーの塩ものがあまり美味しいとは思わない
魚が好きな私が、サバの塩ものを出されても喜ばないことを
連れ合いは理解できない
 
理由を言葉で説明すれば、
好きでない理由として述べる「言葉の意味」はわかるかもしれないが
好きでない理由の「生の感覚」はわからないのではなかろうか
 
新鮮な魚を食べてきた私には
スーパーで売っているサバの塩ものは、美味しくないのだ
焼き立てであったとしても、口に含んだときの食感が、
日の経った魚肉の味がする
 
どこか見知らぬ国へ放浪の旅して、おなかがすいたとする。
空腹でふらふらしていたとする
「もう何日も食べていない」と現地の人に言えば
現地の人と私の間では、
「お腹がすいてふらふらしている、何か食べると元気になると」いうことについては
分かり合えるだろう
 
そこで、食事として、「コオロギの足」が出されたとする
お腹がすいているから食べるだろうけど、美味しいとは思わないと思う
 
今では、ほとんどの日本人は食べないだろうが
私は、クサギの虫は焼いて食べる
香ばしくて、皮はパイ皮、内臓はピーナッツクリームの味がする
それでも、青虫は食べる気にはならない
蜂の子も美味しいとは思わない
そういう文化の中で育ってないからだ
 
なぜこういうことを話題にするかというと
別のところで、国際交流なんかで、
「文化と文化の違いを超えて人と人は分かり合えるか」ということが話題になっているからだ
 
「わかり合える」ということの階層があるように思う
 
文化を超えて、人と人は分かり合えない
分かり合えないということは分かり合える
 
と言葉にすれば、「クレタ人はみなウソつきだとクレタ人が言った」
と同じような、矛盾に聞こえるかもしれないが
 
「お腹がすいたら、ふらふらする。そんな時は、何かを食べるといい」
というレベルでは、人と人は分かり合えると思う
しかし、具体的に何を食べさせるかということになると
文化の違いで、分かり合えないかもしれない
 
「お腹がすいているだろうからと思って、せっかく食べ物をあげたのに
食べようとしない」と腹を立てないためには
分かり合えるということの「レベルの違い」についての気づきが必要だろう
 
(ということについて、分かり合える人と分かり合えない人がいたりする。)